貧しきも 憂きも消し飛ぶ 五月晴れ  | がいちのぶろぐ

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長かったゴールデンウィークも、さすがに今日と明日を残すだけとなった。

 

 

 新入社員や新入生にとっては、これから五月病の季節になる。これまでの生活とは、打って変わった環境が始まって1カ月。緊張していた毎日が、この長い休みの間でふっと切れてしまう。

 

その途端に、何だかわからないけれど全てが憂鬱になってくる。これからどうするか、どうなるかという当てもない。だけど、果てしなく長く思える毎日が待っている。それを考えると、どっと疲労感に襲われる。そうして、五月病と言われる状態に陥って行く。

 

 

世の中こんなもの、という割り切りができる年齢でもなく、もちろんそんな割り切りが何かを生むわけでもない。疲労感に打ちひしがれながら、会社や学校に出かけてみても、1か月前に感じた新しい何かが始まる喜びのようなものを、もう感じられなくなっている自分がいる。

 

五月病というものは厄介なものである。夢や希望などと言う言葉が持っている「嘘くささ」は、とっくの昔に見抜いてしまっている。

 

かといって、これからの生活を考えれば、たったの1カ月で、現状をすべて放り出して、全く変えるほどの勇気もない。見通しもない。こうして、中途半端な気持ちを抱えたままの毎日が続いてゆく。

 

でも、こうした五月病から脱出することはできる。実は、単にこの1か月間の緊張から来る精神的な疲れが、休むことによってドッと溢れ出ただけなのだから、精神的な疲労感を肉体的な疲労に転換すれば、精神的な疲労感は随分解消される。

 

だから、五月病のような感覚だと思ったら、夜にでも歩いたり走ったりして、肉体に疲労を感じさせれば、精神的な疲労感は軽減される。

 

私自身を振り返ってみると、大学に入った時には特に緊張感もなく、まして運動部に属していたので、ゴールデンウィークには新人合宿という3日間ほどの短期合宿があり、休み明けにはそれこそ肉体的な疲労がピークに達していた。

 

 

 

こうなれば五月病も何もあったものではない。休みが明けてもぐったりとしながら、授業が終われば毎日グラウンドに通っていた。それこそ、雨でも降って練習が軽くなることを願っていた。雨なら雨で、短時間ながら結構きつめの筋力トレーニングが待っていたのだけれど。

 

会社に入った時には、ゴールデンウィーク明けがどんな状況だったのか、全く覚えていない。もちろんまだ試用期間ということで、4月の後半に仮配属されて、それぞれが配属された職場で仕事を行っていたのだが、いずれ仕事などと言うレベルではなかったから、雑用係のようなものだったと思う。

 

それにしても、こんな感慨を持つ年齢になった。当時の若かった仲間も、ほぼ全員が第一線を退いている。果てしなく長く思えた人生も、残る人生を数えるところまできた。

 

それでも、現在は“若い人の貧困”ということがよく言われる。この問題は非正規雇用という問題とセットにして語られることが多いが、とりあえず、なおまだ多数派は正規雇用されている側である。ただし、正規雇用であっても、この20年間ほどは実質賃金がほとんど上昇していないことも事実である。

 

だから多くの人は、就職をして、何年かすれば結婚をして、またしばらくすれば子どもができる。そうなれば、生活にかかる費用が増加するのは当たり前で、給与が上昇しない限り、生活が苦しいのは当然である。

 

額面の給与が多少上がったとしても、税金や社会保険で結局は手取り額はさして変わらない。扶養控除が発生して、その分手取り額が多少増えたとしても、それで可処分所得が劇的に改善されるものでもない。

 

それ以上に、保育や教育にかかる費用に追われることになる。給与曲線というものがある。年齢と共に給与がどう変化するのかを示すものである。これは、大体40歳代には頭打ちになる。子供の教育費が最もかかる時期に、基本給与は頭打ちになり、さらに出世競争の中で個々人に格差が生じてくる。

 

個人消費が低迷している原因は、ここにも存在しているのかもしれない。若い人の貧困だけでなく、中年世代も見かけ以上に貧困なのである。こんな状況では、庶民は節約志向にならざるを得ない。

 

安倍ノミクスだか何だか知らないけれど、可処分所得はどんどんと擦り切れている。そうしておいて、景気が上昇しないと言っても、消費を増やすための原資がないのである。

 

「買いたいものが無い」不況だというけれど、お洒落もしたい、たまには旅行もしたい、お酒を飲みにも行きたい、外食もしたい、と思っても、その原資がない。先立つものが無い。

 

 

もっとも、昔から先立つものは無かった、ということも言える。あれもこれも叶えようとすれば、昔から庶民には到底無理な注文だった。誰もそんなにお洒落をしていなかったし、外食も滅多にはしていなかった。サザエさんにも、外食シーンは滅多に出てこない。

 

今は、お洒落や外食などの情報が嫌というほど存在するから、“そうなっていないのは自分だけ”のような気がしてくるが、実は大多数がそうはなっていない、というのが当たり前の実情である。

 

ただ、家電製品などはほぼ行き渡ったから、その部分では、「新たに欲しいものが無い」状態にはなっていると思う。それ以外では、昔も今も変わらない。

 

だから、個人消費を上向かせて景気を良くする、という方策は全く現実的ではない。昔は高校卒が普通だったことを考えると、昨今は子どもの大学の教育費を考えれば、昔よりも節約志向になるのはやむを得ない。

 

こうした事情を考えずに、個人消費の増大と言っても意味がない。若い人の貧困だけでなく、中高年からシングルマザーまで、押しなべて「貧困感」に押し潰されそうになっているのだ。

 

若い人が「さとり世代」になって、夢や希望などという言葉は嘘くさい、と見抜けるくらいなら、五月病などになっている暇はないのかもしれない。それ以上に、きちんとしたキャリアプランを持っていないと、中年世代になってから、本格的に疲労困憊することになるかもしれないと思う。

 

五月病も困りものだし、若い人やシングルマザーの貧困も大変な問題だと思うけれど、根本には「総貧困」な状況があるということだと思う。そして、その一端となっているのが、世の中にはこれほどの“バラ色の世界”があるという“まぼろし”を見せてくれる“情報化社会”があるのかもしれない。

 

こんな現況の分析をしてみたところで、何かが変わるということはないだろう。ただ、結婚していない(できない?)割合が○%もある、などという統計を示しても、そこには何の意味はないと思う。

 

なぜなら、結婚観が変わったら非婚の人も増えるだろうし、親が見合い結婚を勧めても、本人が嫌だと言えばそれまでである。「長男だから早く跡取りを」などという考え方は、相続すべき何かがあれば別だが、もはやそんな感覚を持つ人もおそらく少ないだろう。

 

これからの社会は、自分で選択できる範囲が広がった分だけ、逆にリスクも増えていくだろう。そうなると、無理に結婚しようと思わなくなる人が増えても、やむを得ないことなのかもしれない。それが“成熟した社会”の持つ一面なんのだとすれば。