会場は 仲間楽しく 客寒し  | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

今日は、気温が急に上昇している。体が、まだ暑さに慣れていないため、これは結構きつい。テレビCMではないが、体がダル重ーいと感じてしまう。

 

昨日は、孫が来ていたのでブログを書くことができなかった。いや、正直なことを言えば、ブログを書くよりもそちらの方がはるかに楽しいわけで、到着予定時刻の前からソワソワして、ブログの内容を考えるどころではなかった。

 

さて、先日のブログで、行政が何らかの形で関わったイベントが、それこそ数多く実施されていることについて、若干の驚きとともに違和感を感じることもあると書き留めておいた。

 

そのことを、少し掘り下げて考えてみたい。

 

というのも、市民団体の主導で行われるようなイベントの場合、その団体と関係する参加者が発する「身内感」が強くて、その他の“一般の”参加者が、そのイベント会場に近寄りがたい雰囲気になることが多い、と感じているからだ。

 

私自身、過去にNPO的な団体のイベントと関わったことも、少なからずある。そこで、こうしたイベントにおける「場の作り方」と、参加者との「距離感」、「関わり方」など、どうすれば“一般の”参加者が来場しやすくなるかを考えてみた。

 

この際、ビジネス絡みのイベントは、とりあえず横に置いておきたい。例えば、見本市、展示会といった広く来場者を想定するイベントや、研究会・講演会などでも、ビジネスと関連していて参加対象者も限定された集まり、といったものである。

 

そうしたイベントではなくて、「○○まつり」といったイベントや市民向け講演会など、参加者は広く市民(住民)を想定しているか、もしくは地域的には限られた範囲に告知されていても、特にその告知の範囲だけではなく、参加に限定をつけずに来場を呼びかけている、といったイベントの場合である。

 

こうしたイベントが時として持っている、「多くの人に参加してほしいけれど、見ず知らずの人があまり多く来ると、何だか少し嫌だよね」といった「雰囲気」を醸し出してしまう原因について、少し掘り下げて考えてみたい。

 

まず、きわめてオープンな、行政主導型の「○○市民まつり」などという大規模イベントの場合は、その地域にある大きめの公園や河川敷のような場所で開催されることが多い。

 

(大規模な市民祭りの会場の全景)

 

 こんな場合には、会場に仮設舞台が設けられて、その舞台上では市民団体のサークル活動や、その地域内の様々なお稽古ごとの教室などのグループ、それに小中学校のクラブ活動などが、“年に一度の発表会”的な場として活用することも多い。

 

(仮設舞台での催し)

 

 そして会場の中では、飲食などのテント張りの屋台も数多く出店される。その屋台も専門の業者の出店以外に、各種の団体の広報・宣伝活動や、農業団体の即売会(マルシェ)などから、趣味のサークルや公民館のサークル活動なども、作品の販売や飲食の提供など、色々と出店することが多い。

 

こうした大規模な形式でのイベントの場合には、当然参加する住民の数も数万人単位になることもあり、舞台上で表演される団体ごとに、その団体の関係者、例えば家族や知人・友人など、が舞台を取り巻いて声援を送り、出演団体や演目が変わるごとに、観客も大幅に入れ替わったりする。

 

こうして舞台に声援を送る人たちも出演者も、それまでの待ち時間や、舞台での発表が終わると、思い思いにテント張りの屋台を覗いて回り、食べ物や飲み物を買い求めたり、子供をキッズ・コーナーなどで遊ばせたりして、楽しく時を過ごす。

 

こうした大きなイベントの場合でも、例えば舞台での表演の観客や、テント張りの屋台の内側で関わっている人も、それぞれに多かれ少なかれ「身内感」が漂っていることが多い。それでも、全体としての参加者数が圧倒的に多くて、それぞれの場所に存在する「身内感」はさほど気にならない。

 

これほどの大規模なイベントではない場合に、「身内感」から引き起こされる“問題”が生じるように感じている。会場の規模でいうと体育館や屋内のイベント会場といった規模である。

 

これよりさらに規模が小さく、近隣の公民館のような施設を会場として開催されるイベントなら、逆に参加者も近隣の顔見知り中心になり、それこそ“身内の人たち”が多くなるが、これはこれでそういうイベントなのだから、「身内感」が強く出ていても納得できないことはない。

 

問題は、その中間段階と考えられる、比較的多く開催されている各種のイベントにおいて生じるのである。

 

こうしたイベントの場合、主催者側はできるだけ多くの人に来場してもらいたいと考えて、ポスターを準備して各所に張り出したり、市民新聞などにも告知をしたりして、それなりに頑張って準備をして開催される。

 

それで、イベントの存在を知って、ふらりと覗きに出かけたときに、会場に一歩足を踏み入れた途端に感じる、「あれ、間違って来てしまったかな」という、入りにくい“空気感”のことである。

 

まずは、それなりの規模のイベントなので、関係者が多数その場に居合わせている。その割に“一般の”来場者は多くない。ことによれば、関係者の数の方が上回っていたりもする。

 

ある意味、恐怖がその瞬間に訪れる。「あんた誰?」という感じで、関係者から一斉に振り返られるのだ。その途端、来場者はその場に凍りつく。そして、踵を返して去ってゆくのだ。関係者の視線が怖くて入れないのだ。

 

これは、結局は「身内のため」のイベントになっているからだろう。客を迎えるという感覚ではなく、身内だけで盛り上っているに過ぎない。

 

比較するのはおかしいかも知れないが、平日の開店早々のデパートを想像してほしい。客はまだまばらで、店員の数の方が圧倒的に多い。それでも、特に臆することもなく入って行ける。それは、向こう側(店員)が、こちらを客として接してくれているからだ。

 

「場作り」とはこのことなのだ。客として接する感覚と、身内が盛り上がることの「落差」なのである。だから、イベント会場では、身内が会話する場所を、ブースの内側や、椅子などが配された休憩場所など、限定された場所にする必要がある。

 

あちらこちらで、身内同士が立ち止って会話していれば、“一般の”来場者は、入りにくい空気を感じてしまう。ましてや、入った途端に、「あんた誰?」といった目でジロッと見られようものなら、ホントに立ちすくんでしまう。

 

イベント会場で「客としてもてなす」ことは、「客を場に馴染ませる」ことに他ならないと思う。それは、笑顔で迎えることでもあるだろうし、気軽に声をかけられる雰囲気作りでもあるだろう。そのためには、何よりも「身内感」を漂わせる行為を減らすことである。

 

(伝統工芸関係のあるイベント会場の入口風景/これなら入りやすいかも)

 

身内同士で通路で立ち話をする、出店ブースの前で、よそのブースの関係者と話し込む。といった、“顔見知り同士の行い”を慎むことである。そうして、できればブース内にいる関係者の数は少なくし、他はなるべく休憩所などで待機する。こうして、客の方が多い雰囲気を演出する。

 

また、あまりに元気よくブースへの呼び込みを行うことも、周りにいる身内を意識した「笑いをとる行為」になってしまうので、よけいに“一般の”来場者は困ってしまう。「遊びなのだから」と弁明されても、主催者側は、「来場者あってのイベント」だと「釘」を刺さないといけない。

 

適度な「身内感」は、当の本人には心地いいものではあるが、全く見ず知らずの来場者からすれば。それが疎外感を生むもとになる。

 

このことを理解して、イベントを開催する場合には、準備段階の会合で、主催者がこうした趣旨というか、広く来場者を募る意義を関係者に徹底することが、「“一般の”来場者が来てくれて、イベントが盛り上がる」結果になるのだということを理解してほしいと思う。