考え方をシフトする
いまだに、福島にある東電の原発は予断を許さない状況にあります。
これを、「危機」と考えてしまえば、「危機」としてしか経験できないでしょう。
ではこれを??
どういう見方をすれば、「チャンス」と考えられるだろうか??
たとえば
現段階での原子力発電技術の未熟さや運用の悪さを確認できたこと。
より安全で安定的なエネルギー戦略へシフトすべき、大きなモチベーションが得られたこと。
なんかが私には比較的かんたんに思い浮かびます。
技術的に望ましくない状態であるならば、それを正してよりよき状態になりますように。
その結果としての、よりよい内容を受け取れますように。
高すぎる授業料であったけれども、それをムダにすることがありませんように。
古い、目先の小さな利益のためだけで、不具合のある状況を正さないことがありませんように。
私たち自身が、新しい変化を受け入れ、よりよい状態へ移ることができますように。
もちろん、東電にしても、現政権にしても、過去に原発推進を強く推し進めてきた政治家にしても、それぞれの責任を逃れることはできないでしょう。
そしてそのような状況を許し、そのような人びとを選んできた私たち自身の責任も。
私たちが、望む未来を掴むことができますように。
どちらも大詰め
現在、二つのプロジェクトに関わっている。
どちらも金銭的なペイは得られないけれども、私にとっては大切なこと。
一つはY2S のロゴデザイン。
そしてもう一つは、知り合いのお手伝い。
なんとプレキャストコンクリート構造のマンションの一部屋を、防音室に改造するというもの。
当初の予定では、去年末くらいには概ね終了しているハズだったのだけれども。
いろいろな問題点が噴出しつつも、一つ一つを潰していって、今日、タイルカーペットを敷き詰めてある程度の荷物の搬入までこぎつけた。
ここまで、長かった。
どちらも、あと少しで終わるハズ。
最後まで、怠りがないように。
そして。
どちらも高い完成度で終わることができますように。
捨てたハズの技能
小さなボランティア の手伝いをしている。
私の担当は、ロゴなどのグラフィックなデザイン。
小学校、中学校、高校、大学と、必ず一度は漫研に在籍していたっけ。
中学くらいのとき。
父親にかなぁ~り強く言われて、そういう方向へ向かうことはあきらめたといえ。
もう、捨て去ったと思っていた技能。
そんなものでも、他人の役に立つことがあるんだな。
これから
福島第一原発はいまだに予断を許さない状況が続いているようです。
これほど大規模は災害になっているにもかかわらず、ごく個人的な感想としては福島第一原発はよく耐えていると思うのです。
もちろん、オペレーションの悪さ、指揮系統の混乱、設計思想の古さ、設計の悪さを感じています。
それらを考え合わせても、やはりよく耐えているなぁ、と。
もちろんこれは、放射性物質が漏れ続けている現状を良しとするものではありません。
「まったく想定外の規模の地震」というのは、本音でしょう。
地震のエネルギー規模を示すマグニチュードで比べても、今回のMw9.0が正しいとすれば関東大震災(1923年, Mw7.9)の40倍以上、明治三陸地震(1896年, Mw8.5)の4倍程度もあります。
構造の強度を決定するに当たって、無限の強度を持たせることは不可能ですから、どこかで妥協しなくてはいけません。
そのとき、今回のようなMw9.0もの規模の地震は想定していなかったでしょう。
特に、運用が40年ほど前に始まった福島第一原発では。
もちろん、システムの悪さ、設計のマズさというのも感じています。
特に最悪の事態に対して安全側に倒れる設計が、必ずしもされていなかったことは大きなショックでした。
事態の収束には、数ヶ月から数年はかかるでしょう。
私たちはそこから多くの教訓を学び取るでしょう。
その教訓を適用できるものに適用したとき、もっと安全で快適なシステムができていることを望んでいます。
原発そのものが、どのようになっていくのかは判りませんが。
違和感
あの大地震以来、原発廃止論が語気を強めている。
共感できる部分がないワケではないが、あまりに感情的にすぎるように感じる。
放射能による汚染、原発近隣に住むというだけで受ける差別、そういったものに心が痛まないわけがない。
しかし、何か、こう、強い違和感を感じてしまう。
石炭や石油による火力発電に事故がないワケではない。
二酸化炭素による温暖化(それが、本当だとして)の問題や、煤煙などの大気汚染の問題が残る。
原油が流出すれば周囲の環境汚染は深刻だし、石炭の採掘には粉塵爆発の危険が常に伴う。
さらに化石燃料の埋蔵量が残り少ないといわれていることも問題だ。
ダムによる水力発電は、そもそも蓄えられる位置エネルギーが少ないし、建設すれば環境破壊だの集落の移転だのという問題がある。
太陽光や風力は、どちらも「コンスタントに」ある程度以上の発電量を得るのが難しい。
そして、どのような発電方法を用いるにしても、そういったプラントやデバイスを作るのに大きな物理的エネルギーが必要となる。
私たちは、いつも何かを犠牲にして利便性を得ているということを忘れているような気がしてならない。
だから、誰かを犠牲にしていいという議論では、もちろんない。
原子力廃止論は結構だ。
だが、それに代わるエネルギーを得られなければ、私たちは今までとは比べ物にならないくらい不便な生活、低い経済力、低い国力に甘んじる覚悟が必要。
首都圏の計画停電くらいで不満が噴出する人たちに、その覚悟があるのだろうか。
スーパーに牛乳やパンがないといって、不安に駆られて買いあさってしまう人たちに、その覚悟が??
解決方法はいくつかあるだろう。
一つは、経済的な成長に大きな価値観を置かず、もっと違う価値観を上位におくこと。
一つは、現在までに実用化をされていない新しいテクノロジーによって、大きなエネルギーを得ること。
そして、今までの延長線に立って、何かしらの大きな代償を払いながらエネルギーを得続けること。
さらに、もっと別の選択肢。
願わくは、三番目ではありませんように。
神話からの問いかけ
あの大地震から早いもので2週間ほどが経った。
世間では原発廃止論が喧しく論じられている。
これほどの大きな災害を惹き起こしながらも、発電量あたりの平均死亡率を比べたとき、原子力はかなり低いカテゴリの属するそうだ。
http://nextbigfuture.com/2011/03/deaths-per-twh-by-energy-source.html
いや、石炭が尋常ではないほどに多い、というべきなのかもしれない。
原発の廃止に関しては、社会的な選択がそうなっていくだろう。
問題は、その代替となるエネルギーをどのように確保していくか。
何かを燃やしてという選択肢は、二酸化炭素が地球温暖化の大きな要因の一つであり、このまま続ければカタストロフィックな事態になるというのであれば、適切ではない。
経済を発展させていくには、やはり潤沢なエネルギーが必要。
と、ここまで考えて、ふと別の考えが。
これって、神話と似てない??
というのも、経済を人口に置き換えると、そのように感じられるから。
非常に古い神話では、女神が最高神であるものが多いのです。
これは、人口が増えることが当時の人たちにとって最高の善の一つだったから。
生む母なる神は、最高の崇拝を集めていました。
その結果は??
人口の爆発。
それによる近隣との衝突と戦争。
洪水の神話は、こうした人口爆発による淘汰の記憶という人もいるようです。
母なる神は、別の顔として戦争の女神であり、暗い死を司る神でもありました。
オリエントの神話エヌマエリシュに語られるティアマトのように。
若く美しい男性の神を横に置いて。
イーリアスに語られるアプロディーテーとアレースの情事は、そんな物語の成れの果てなのかもしれません。
そして、人びとは父神を最高神に据え、以前よりは管理された出生のイメージを選んでいきました。
もしかしたら。
私たちは経済に関しても、そういうイメージを選び取っていくのかなぁ、と。
ぽつぽつと
日常に戻らなくては。
平常な日常を暮らすことが、被災地の復興への足がかりになる。
とはいっても、無職の現状では、まずは職を探すことから始めないとね(苦笑)
被災地には何人かの知り合いがいる。
一応、直接/間接に無事を確認している。
不謹慎な表現になってしまうが、多くの方が亡くなっている中、知り合いの無事が確認できてとてもうれしい。
福島第一原発に程近いところに、浪江という町がある。
駅から少し北へ歩くと、川に沿って美しい桜並木の堤あがある。
桜の時期には、出店が出て夜は花火が打ち上げられる。
その一帯も、かなりひどい有様だと聞いている。
大船渡にはファン仲間の医者がいる。
彼はメンタルヘルスの専門家だと聞いている。
大船渡の病院で、大変な思いをしながらも無事だと聞いている。
秋田の友人からも無事の知らせが。
2,3日はインフラがかなり混乱していたそうだ。
171にかけても「該当区域ではない」とアナウンスされたから、少し安心していたけど。
また、みんなと大好きな音楽を聴きながら楽しく過ごせるときが来ますように。
早く職を見つけよう。
一生懸命働いて、被災地がある程度復興したら行ってみよう。
直接知り合いにあえなくても、そこでいろいろなものを消費しよう。
少しでも、現地の経済が回るように。
そのために。
今は自分の「今ここ」に集中しよう。
それが、たぶん、今の私にできる一番の復興支援。
微笑むことの大切さ
今日は、大好きな小川美潮さんのライブ。
西荻だったから、メチャ近い。
吉森信さんとのデュオ。
ライブにはよく行くけれども。
ミュージシャンに入るお金なんて、ちょっぴり。
それも、よく見ている。
というか、ライブの上がりそのものが、それほど大きな金額ではない。
それでも、やはり大好きなミュージシャンのライブは、コストを払って聴きたい。
私にできることといえば。
ライブに通って、今日もすばらしいライブでしたと微笑むことくらい。
そんなことしかできないけど。
それができるなら、やろうよ。
そんなことを感じた夜。
目立つ??
私が普段使っているカメラはフィルムのカメラ。
このカメラを使うときは、たいていライブを観ているとき。
古いカメラなのでシャッターの幕速が遅く、音が静か。
レンジファインダーという形式なので、一眼レフのようにミラーアップの音もなく、やはり静か。
そう、このカメラを選んだのは、音が静かでレンジファインダーとしては圧倒的にファインダーが見やすいから。
音で演奏のジャマにならないように。
そんな私の思いとはウラハラに、このカメラはずいぶん目立つらしい。
第一に、フィルムカメラであること。
今時デジカメを使わない人は珍しい(らしい)。
第二に、一眼レフではないこと。
今の人は、あまり見たことのない形式のカメラらしい。
そして、カメラマニアには一目でわかってしまう有名なカメラだったりします。
もっとも、それを使っている人を見るのは珍しいのかもしれませんが。
静かということだけならコンパクトのデジカメを使えばよさそうなんだけど。
最近のカメラは、カメラ自体が勝手にイロイロやってくれちゃうのでレスポンスが悪い。
レリーズボタンを半押しにして露出やピントを決めていても、押し切ったときに少しの時間ズレるのだ。
決めていることをやるのに、時間がかかるのは精神的に気持ち悪い。
何のために、半押しにしてシャッターを切るタイミングを見計らっているのか??
それに応えてくれないカメラを、使う意味はあるのか??
ライブ会場に行くと「○○にいましたよね??」ということをよく訊かれることに気がついた。
本人が印象薄くても、カメラが目立ちすぎているらしい(苦笑)
答えの一つ
以前、残念な不信感 を抱いていたとき。
この感覚から私が学ぶべきことは何か、とずっと考えていたのでした。
お手伝い先の人や、他のお手伝いの人とも意見を交換してみて。
やはり共通するのは、残念な感覚ということ。
何が残念??
それは、その人が目指すべき目標に向かって全力を尽くさなかった、ということ。
苦手な意識が先行してしまい、その感覚をかばうための表現に見えてしまうということ。
そして、私も同じように感じたとうことは、私自身も同じことをしている、ということ。
罪悪感でハートの穴をふさぎながら。
もっと、おバカさんであっていい。
もっと、愚かであっていい。
自分が行くべきところを見据えて。
壁にぶつかったなら、壁があることを認識すればいい。
壁をまわりこめるか、どこかにドアがあるかは認識してよくみて初めてわかること。
だから。
もっと真摯に。
愚かをいわれても。
それがたぶん、答えの一つ。