(第4節からの続き)

 

 

 


第5節 日枝久フジテレビ社長就任とYTSの決断

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クーデターで失脚し会長としては短命に終わった鹿内宏明

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後にフジサンケイグループの独裁者となった日枝久


1992年7月21日、フジサンケイグループは日枝久氏等のグループによる臨時取締役会で鹿内宏明会長を解任し、翌日の記者会見で日枝氏が新社長に就任しました。

服部会長の死後、筆頭株主だった相馬大作元酒田市長はある事を考えました。

「山形のマスメディアはYBCの日テレとテレ朝のクロスネットを解消しない限り、未来への発展は無い。変革の為なら手段を選ぶ余裕も無い以上、多少犠牲を払ってでも行わなければ。」

 

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平成新局の皮切りとなり、テレ朝平成新局第一号となった熊本朝日放送旧局舎

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此方は熊本朝日放送現局舎
 そんな折、当時テレビ朝日が89年の熊本朝日放送を皮切りにネットワーク拡大運動を行っており、新設局を作るのに開局費だけでなく、保証金として開局費の1・5倍もの資金を支払わなければならず、在来局からの編入なら保証金を支払うだけで済み、それで負債を帳消しに出来ると経営陣は判断した様です。


この状況を見据えていた筆頭株主だった相馬大作元酒田市長はYTSのネットチェンジを提案。相馬氏はYTS経営陣にフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを提案しました。


負債を解消したいYTSと、一つでもネット局を増やしたいテレビ朝日との利害が一致し、92年9月の山形テレビ臨時取締役会でフジテレビ系列を脱退し、93年4月からテレビ朝日系列へのネットチェンジを決定しました。
ここで当時短大生だった私はザ・テレビジョン92年9月最終週の連載記事「21世紀のテレビジョン」フジテレビ編の記事と当該週のニュース記事で初めて知り、当時はフジテレビ系離脱には驚き、翌年2月の特集記事で始めて山形の特殊事情を知りました。
第6節 驚天動地!前代未聞のネットチェンジ


 92年10月、YTSはフジテレビへFNS系列からの脱退を通知し、「負債による経営悪化で自力での再建が困難。フジテレビと日本テレビとのクロスネットを解消すれば経営改善に繋がる」と説明し、当然フジテレビ関係者は激怒し「それなら何故テレビ朝日系列へネットチェンジする?本来ならフジテレビ単独ネットにするのが筋ではないか?」と反論し、これに対しYTS関係者は「テレビ朝日を選んだのは株主の意向」と釈明、そう服部元会長が朝日新聞の株を残した事がフジテレビ系列としての致命傷にしてテレビ朝日系列への逆転のトリガーとなり、ここに爆弾が爆発する事になりました。

当時は消極的だったテレビ朝日関係者も「テレビ朝日とYBCのネット関係はどうするのか?」とYTS関係者に質問し、YTS関係者及び相馬氏は「YTSはNET(現・テレビ朝日)系で開局する予定だったが、服部元会長の介入でフジテレビ系にさせられた」と釈明しました。

読売新聞山形版が1992年9月27日付朝刊でスクープしたのを皮切りに、日本経済新聞山形版が1992年9月30日付朝刊、朝日新聞山形版が1992年10月2日付朝刊、毎日新聞山形版が1992年10月4日付朝刊、産経新聞山形版が1992年10月6日付朝刊で大々的に報道しました。
山形新聞も1992年10月13日付朝刊で山形テレビのネットチェンジを報道しましたが、全国紙と比較して小さな記事でした。

当時、新聞、一般雑誌、アングラ週刊誌等で本件が取り上げられ、当時視聴率・売上トップでテレビの王者だったフジテレビに反旗を翻す等本当にビックリした一方、地方系列局は報道等で協力しているだけの別会社で、経営支援は不要との鹿内宏明元会長の言い分も判る気がします。
何よりも一番ショックだったのは社長になったばかりの日枝社長で、YTS脱退の通知を聞き「何故一言相談してくれなかったんだ!」とYTSを助ける意向があった様で、行き違いからの悲劇とは正にこの事と同時に、後に二代目山形フジテレビ局復活の遠因となりました。

また、YTS社内でもフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを疑問視する声が挙がり、「どうしてフジテレビ系を脱退する必要があるのか」や「テレビ朝日系移れば経営再建できるのか」とネットチェンジを疑問視するYTS社員もいました。

やはり、既に経営陣が朝日派に入れ替わっており、フジ派が封じ込められたり、経営悪化の責任を名目にフジ派が一掃された事も影響していたのかも知れません。
山形県民もショックを受け、当初はアンテナ強化でOX・仙台放送、AKT・秋田テレビ、FTV・福島テレビ、NST・新潟総合テレビを受信しようとしたり、CATV加入、チャンネル増設、県外でのビデオ録画などの対応をしましたが、23年間慣れ親しんだフジテレビ系列の番組が局の都合で観られなくなるのは理不尽極まりない行為でした。
フジテレビはYTSに対し92年末から脱退迄の4ヶ月間、自前でスポンサーを探し出し付ける様ペナルティを課します。 

YTSのネットチェンジを受け、世界名作劇場は大草原の小さな天使ブッシュベイビーを以て放送打ち切り、TUYで放送された勇者シリーズは伝説の勇者ダ・ガーンを以て放送打ち切り、次番組の勇者特急マイトガインはYTSで春休みの3月22日から31日の午前11時の帯枠を利用して第1話から第8話迄を放送し、4月3日放送の第9話から全国ネットに乗り入れる様にしました。

 

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YTSで最後に放送された世界名作劇場の大草原の小さな天使ブッシュベイビー。一日遅れの毎週月曜19:30からの放送だった

 

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YTSのネットチェンジの影響で特別編成を組んだ勇者特急マイトガイン。主人公機も初代つばさが変形合体した
その頃、新庄市の中学校で中学生がいじめでマットに圧死させられる痛ましい事件が起き、被害者の家には当時人気アニメだった美少女戦士セーラームーンのポスターが遺されており、第一部最終回だけでなく、山形で正式な時間帯で放送された事も、五年も続いた事も知ることなく落命し、さぞかし無念だったに違いありません。

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無印のみYBCで放送されたセーラームーン。当時はまさか放送局移籍と5年も続くとは誰も思わなかった。(画像は無印当時の物)

 
 
 

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誰もが驚いたネットチェンジ予告 
当時、フジテレビ系でOAされた音楽番組「MJ」の山形での最終回で古舘伊知郎さん宛てに山形からの視聴者からFAXが送られ「どうしても観たいのに、来週からMJが観られなくなる」との内容でしたが、これに対し古舘さんも「こればかりは仕方がない」と言うしか出来ませんでした。
1993年3月31日、遂にフジテレビ系列としての最終日を迎えフジテレビの番組は全て終了マークが付き、東海テレビ放送のドラマ「正しい結婚」は特別に放送出来なくなる最終二話を合わせた三話分を3月31日に纏めて放送して対処しましが、連続放送だったドラゴンボールZ等は途中終了とならざるを得なくなり、視聴者に大きな不満を残しました。

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ネットチェンジで二度と観られなくなったウゴウゴルーガ(上)と幽々白書(下)。幽々の作者・富樫義博氏は山形県出身で、写真は山形ではさくらんぼテレビで放送となった最終回の場面である。
翌4月1日、山形テレビは開局24年目してテレビ朝日系第19局目の単独ネットとして再出発し91年の青森朝日放送、92年の秋田朝日放送に続く3年連続で東北にANN局が来る事にましたが、同時に波瀾万丈の再出発となりました。