(第2節からの続き)


第3節 黒船襲来!FM山形とテレビユー山形開局

昭和末期の1985年、山形マスコミの異常性に重い腰を上げた郵政省は新規FM局と第三民放局の免許を交付、山形第三民放局は159件もの申請がありました。

山形第三民放局と山形FMラジオ局は山形新聞もダミー申請を行ったものの、マスコミ資本集中排除の原則を前に資本参入は叶わず、 FMラジオ局はFM山形に、山形第三民放局はYBCでネット参入の機会を失ったTBS系列のテレビユー山形に決まりま、山形のマスコミはこぞって報道しました。


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TUY局舎と開局記事

1989年4月にFM山形が、同年10月にTUY・テレビユー山形がそれぞれ開局し、サービス放送時にTBSのザ・ベストテンが最終回を迎えたのは余りに有名でした。TUYはTBS系列ですが、


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ABC発テレビ朝日系アニメは~いアッコですや、

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名古屋テレビ発テレビ朝日系のアニメ勇者エクスカイザー、テレビ東京系列のアニメも番宣ネットで放送されていました。YBCもYTSもTBS・MBS系列の番組が姿を消し、YTSでは漸く木曜22時の木曜劇場がネットされましたが、何故か一週遅れの番宣ネットでした。

服部会長はFM山形とTUYに山新グループ企業のCMを一切流さなかった一方、ホテルキャッスルはFM山形とTUYにCMを打ったり、イベント誘致が可能になったかも知れません。

このままだったら平穏だった筈でした。


第4節 服部会長ご乱心と死去 そして…
FM山形とTUYの進出に対し、服部会長はYTSに多角経営を命じ、まず避妊薬や健康食品を販売するバイオ科学研究所をを設立し、続いてハリウッド映画リ・アニメーター2やグランドツアーに出資、クルーガー金貨の販売、青年漫画原作をアニメ化したのぞみウィッチィズ等OVAの制作に出費等、折からのバブル期と重なり、テレビ局の範疇を逸した多角経営を展開しました。(のぞみは将来フジテレビに権利を売却するつもりだったのではと予想していました。)

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全ての転落の始まりとなったバイオ科学研究所設立の記事

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OVA発売当時に発売されたのぞみウィッチィズCDサントラ。製作プロもタッチ&陽あたり良好!の旧グループタックだった。

しかし、何れも軒並み損失を被り、ハリウッド映画リ・アニメーター2は宮崎勤事件の影響もあり、余りに猟奇的な内容とフジテレビに売り込みを拒否され、返却しようとしたら業者に逃げられ、バイオ科学研究所も売上が振るわず、90年12月には服部会長が反対していた外食チェーン・マクドナルドの山形1号店が開店し、県外資本の外食チェーンやコンビニ進出の始まりとなり、自身が誘致したべにばな国体の開会式への出席と、山形新幹線の一番列車を見る事無く失意のまま1991年3月14日に服部会長は生涯を終えました。


 服部会長の死後、YTSには様々な怪文書が飛び交い、翌年春バイオ科学研究所は閉鎖され、負債の総額は当時25億円にものぼり経営陣も入れ替わり、当然YTSはフジテレビに経営支援を要請しますが、銀行マン出身で金銭感覚の厳しい鹿内宏明会長は「経営支援を取り付ける代わりに、恒久的にFNSに所属して貰う」と条件を提示。これを聞いたYTS経営陣は猛反発し、YTSが拒否した後「経営が傾いたのは自己責任である!」として完全にYTS支援を拒否しました。

 鹿内宏明会長が山形テレビへの支援を拒否したのは、フジテレビ本社の河田町からお台場への移転準備で資金面で余裕がなかったためとも言われ、正にバッドタイミングでした。


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服部会長が最後に誘致した山形新幹線開通当時のYTSのポスター。これがフジテレビ系最後の夏になるとは思いも寄らなかった

1992年7月1日、服部会長が最後に誘致した山形新幹線が開通し、その前の6月にYTSの責任者が「経営不振の責任」を理由にフジ・産経派の経営者を解任、朝日系の経営者をトップに据え、その後7月21日と22日、YTSの運命と未来を決める決定的な出来事が起きるのでした。

(第5節へ続く)