内視鏡屋の日記 走・空・鉄

内視鏡屋の日記 走・空・鉄

国内定期便のある全空港利用を達成し
国内鉄道の乗りつぶしを目指す医師のお気楽日誌。

7月2日 その11 

沼牛駅からこんな感じで廃線跡はすすみ

 

こんな建物が見えてきた。

 

鷹泊駅は、北海道深川市鷹泊にあったJR北海道深名線の駅である

 

近くに立派な農業倉庫がある、

 

駅舎は倉庫として使われているようだが、

修理されているようには見えない。

 

ホームも残っている

 

ここもクラウドファンディングすれば

資金が集まるかもしれない。

 

次の下幌成駅は何も残っていないようなので通過して

 

 

この舗装路が廃線跡らしい

 

幌成駅は、北海道深川市幌内にあった

JR北海道深名線の駅である

 

 

この辺りに駅舎があったようである。

 

近くに立派な木造の建物

 

廃校になり、今は地域の集会所になっているよう。

 

 

 

平成9年に閉校とのこと、近くでご老人がゲートボールを

していたが、ここの卒業生なのだろうか。

 

簡易郵便局も閉局のようである。

7月2日 その10 

駅跡から少し離れたところに幌加内町交流プラザがあり

深名線代行バス停はそこにある。

 

ナナカマド、カタグリ、アカゲラだそう。

 

例によってやっていない時間帯で

 

中はこんな風らしい

 

次の新成生駅は道路に飲み込まれて

何も残っていないようなので通過。

 

次の駅はしっかり駅舎が残っている。

 

沼牛駅は、北海道雨竜郡幌加内町字下幌加内にあった

JR北海道深名線の駅である

 

ここもクラウドファンディングで資金を作って手入れされている。

 

ホームもしっかり残っている。

 

廃線跡もわかりやすい

 

線路と駅名表示板があれば、現役でもこのぐらいの駅はある。

 

おそらく別の場所から持ってきたのでしょうね。

 

ケーブルが引かれているので、信号機は動かせるようだ。

 

枠も残してある。

 

現役の時そのままでしょうね。

 

イベント時には入れるのでしょうね。

7月2日 その9 

第三雨竜川橋梁からさらに進むと、使われていない?

農業倉庫があって

 

ここを入っていったところに駅があった。

 

雨煙別駅は、北海道雨竜郡幌加内町字雨煙別にあったJR

北海道深名線の駅であるS58年からは冬季全列車通過であった。

H2年3月、深名線廃線に先立って廃駅。

 

好きな駅名なんですよね、雨煙別。

アイヌ語では「悪い川」という意味だそうだが。

 

ホームの一部が確認できた。

とてもかつては有人駅だったとは思えない場所である。

 

なんとなく線路があったかなと思わせる雰囲気である。

 

さらに先へ進むと、何やら立っている。

 

上幌加内駅は、北海道雨竜郡幌加内町字上幌加内にあった

JR北海道深名線の駅である

 

この金属枠の上に木造のホームがあったようである。

 

廃線跡は畑に吸収されている。

 

さらに進んで、広い空間が出てきた。

 

幌加内駅は、北海道雨竜郡幌加内町字幌加内にあった

JR北海道深名線の駅である

 

 

駅舎はバスの待合室として利用されていたが

H12年3月に火事で焼失した。

 

この辺りが駅前の広場にあたるよう。

 

近くにバスの営業所があった。

7月2日 その8 

 

県道から入ったところに倉庫が建っている。

 

政和駅は、北海道雨竜郡幌加内町字政和にかつて存在した、

JR北海道深名線の駅である。

 

石造りの農業倉庫がそばに建っている。

 

前面は改装されていて

 

これがいいですね。

 

この辺りが線路跡なんでしょう。

 

政和駅から廃線跡がこのように残っていて

 

第三雨竜川橋梁、S6年完成

 

旧国鉄深名線のなかで最大の難工事箇所である

ポンカムイコタン渓谷に建設されたプラットトラス橋です。

技術の歴史的な役割を後世に伝える鉄道橋として、

地元に守られ愛され続けています。

(土木学会ホームページより)

 

道路からはこんな風に見えている

7月2日 その7 

共栄駅跡はバス停と待合室がそれぞれ立っている

深名線と本数も変わっていないようである。

 

 

共栄駅は、北海道雨竜郡幌加内町字共栄にかつて存在した、

JR北海道深名線の駅である。

 

 

ここを入っていったところに駅跡があるようだが

草が茂っているので入っていくのはやめ。

 

添牛内駅は、北海道雨竜郡幌加内町字添牛内にかつて存在した、

JR北海道深名線の駅である。

 

 

しっかり駅舎が残っている、これはうれしい。

 

クラウドファンディングを行ったようだ。

 

国鉄時代、JR時代それぞれの駅名表示板。

 

この広さだと、列車交換はできなかったものと思われる。

 

枠も残されていた。

 

廃駅後しばらくは物置として利用されていたそう。

 

駅員の休憩所であろう。

 

駅ノート、管理も大変である。