ファミリーヒストリー | 雲の呟き

雲の呟き

流れる雲のように、浮かんでは消えていくものの名残を文字にしています。
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悪しからず御理解願います。

多臓器ガンの従兄弟は13日に自宅に帰ってきました。

治ったわけではなく無痛治療で自宅で最期を迎えたいという希望があったから。

彼は私の養母の実家の次男坊にあたります。

母の実家は名古屋の中心栄のすぐ南、矢場町で戦前は家具店を開いていて母も旧制久屋尋常小学校に在籍していました。ちょうど終戦が6年生。戦争で卒業できずに疎開し戦後老齢になってから卒業式が行われた経緯があります。

戦争で焼け出され転々とし今の瑞穂区堀田で店は再開を始めました。母は堀田の洋装店で売り子をしていた時に父が見そめて一緒になったと聞いています。

従兄弟の兄弟は1姫2太郎の三兄弟。私の18上が長男、一回り上が今回の次男、その6年下が最後の長女にあたる。つまり6歳違いの配列で並んでいる。ちなみにその父親つまり私の叔父は生きていれば111歳の4周り上の犬年生まれという因縁です。

その長男の6つ上が私の母になります。

昔は子だくさんが当たり前で母とその叔父とは23も年が離れていました。

兄弟というより親子ほど離れているうえ事情があって実の私の祖母は母の幼少期同居しておらず、亡くなった叔父の嫁、つまり私の叔母が母親代わりのように私の母を育てたらしく、みんな兄弟みたいな関係を築いていたようです。

叔父は人がいいのだけが取り柄のような人で商売には向いておらず生涯借家住まいで商売自身は成功とは言えなかったようですが幼い私にもよくしてくれました。コーヒー好きで遊びに行くと必ずインスタントですがコーヒーを出してくれました。私のコーヒー好きは叔父の影響かもしれません。

前置きが長くなりました。

次男は若い頃今は無き東宝レコードに勤めていて私によくメーカーのサンプルなどくれました。

もともと洋楽好きで小学校の頃から私は始まったばかりのFM愛知とかアメリカ軍基地の極東放送を聞いていてこの従兄弟には影響されました。私の最初のエレキギターは彼の紹介で大曽根のレコード兼楽器店で買いました。

彼はレコード会社時代、売り出し中の研ナオコに張り付いて営業したり野球の「燃えよドラゴンズ」の企画を成功させるなど結構成果を残していたようですが、東宝がレコードから撤退すると大手製造メーカーに転職。しかし溶け込めなかったのか結局住み込みで私の父、つまり私の会社に勤めることになったのです。

所帯を持ったのもこのころで社宅住まいの従兄弟夫婦で私も彼の娘2人のおむつを代えたこともあります。

実家が家具店だったからか彼は市工芸という工業系の高卒でした。レコードみたいな芸能系から流れてきた割には機械いじりが性に合っていたのでいろんな製品の製造方法を編み出していくセンスがありました。

ですから私が経営を任されても私の片腕以上の働きで尽くしてくれました。

10年前定年で辞めるおよそ30年ほど毎日顔を合わせ議論を交わし、時に反発したり、喧嘩もしたり一緒に喜んで寝食を共にした間柄です。

小さな頃から数えたらほぼ60年関わり合った恩人だと言える彼を昨日母と一緒に見舞ってきました。

とても気の重い、辛い再会です。

実は昨年11月初旬ぐらいまで車で通りすがりに言葉を交わすほど側にいて出会う機会があったのです。

そのあとすぐに大腸、肺、脊髄などガンが見つかり入院。そこまでは会話ができていたようですが余分なことに脳梗塞を発症して目も見えない、言葉も発せなくなっていました。

しかし耳は聞こえているはずだと医師は言っているらしいのです。

わずか3ヶ月も満たない間に。

脳梗塞を発症する前に延命治療は行わない。逝くなら自宅に帰りたいという意思は本人が伝えていました。

「ありがとう」と感謝の言葉しか伝えられません。

はかないものです。人の命など。と分かっていても。実に侘しい。

帰り際、車に乗り込もうとする私に奥さんが「今日明日が山だと医師が言っています。」と打ち明けてくれました。

今はもう苦痛から彼が安らかに解き放たれることしか祈れません。

一つの歴史が消えていきます。

皆さんも次があるとは思わずに、後悔のないように大事な人には想いを伝えておくことをお勧めします。