私の家は父は次男坊だったので新屋うちで仏具がありません。
無信仰な両親ですが、冠婚葬祭となるとやたら形式にこだわる旧人類なのは教育勅語のせいだろうか?
実は私若い頃人生に迷って禅寺に通った経験があり仏門の深淵らしきものに少し触れたように思っています。
そこはいたってシンプルな感想ですが、理屈っぽい自分には真逆な思想で目に見えるもの、形にこだわること自体否定された?というかそういう理屈すらどうでもいいと思ったもので、それが仏心の真髄だと考えています。
だから法要がどうの仏具がどうのと形から入る方もおられるようですが、自分はいっこうどうでもいい、大事なのは内なる仏心で自分をどう導くかあるいは導いていただけるのか耳を傾けることに傾注する事でいたって個人のレベルの信仰心を保ちたいと願っています。
とはいえ霊魂だのスーパーナチュラルなものを全否定するつもりではなくむしろ人智を超えた存在はあるだろうと思うし総論的には信じているわけですが、基本死ねばお終い。ご当人は全くあずかり知らぬこと、葬儀だの法要だの残ったものの気持ちの整理に他ならないと思うのです。
私はその意味で全く父がいなくなっても淡々としている方ですが、母はどうも言い伝えている慣習どおりやらないとまずいと考えるひとでそうしないと気が済まないのなら好きにしてくださいということで仏壇屋さんに行くことになり

こんなレクサスクラスのものにはしませんでしたがこじんまりとうん十万もするものをポンと仕入れてきました。
私自身は海に散骨かどこかの丘の樹の下でも撒いてくれたらいいですし、墓も戒名もいらないと考えているので、たぶん私の代で永代供養でもして墓じまいするぐらいが関の山だと思っています。
業者さんたちには申し訳ないですが現世生きてくものの方が大事。
宗教、信仰が組織になっていろんな教条だの格式だの言い出すから諍いが始まったり、儲けようとする輩が跋扈して導師が尊敬を集めなくなったのでは無かったかと考えています。