先日、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが率いるベルギーのダンス・カンパニー〈ローザス〉の公演を観てきた。
ボンゴドラムの一打と共に1人のダンサーが動き始めた瞬間から、ローザスの世界が舞台の上に開かれる。圧倒的な1時間。ゆるぎない速度で疾走するスティーヴ・ライヒの音楽は、シンプルなモチーフを多層的に重ねながら緩やかに変容し、12人の男女のダンサーたちは音楽の上を自在に動きながら、いつのまにか大きな波のように力を集め、高まり、拮抗し、弾け、泡立ち、ほぐれ、拡散し、終息する。息をつめて見つめるうちに、あっというまに舞台は終わり、余韻だけがさざめきのように残る。
ローザスのダンスを観ていると、最も美しい人間の身体が今目の前にあると断言したい誘惑にいつも駆られるが、ケースマイケルがライヒの音楽を選んで振付けた時は特にそうだ。ライヒの音楽は一定の速度(テンポ)が持続され、いくつかのモチーフが反復されながらフェイズを変化させる。いわゆるミニマル音楽だが、加速も減速もしないことで物語的な起伏や心理的な陰影を回避している。
ローザスのダンサーたちもそうだ。彼らは物語を演じないし、内面を踊らない。ダンサーの身体は一瞬にして張りつめて力を湛え、ゆるやかに花弁が零れるようにほぐれていく。腕が中空に水平に固定され、それを軸にして、身体がやわらかくねじれ、揺れ動く。華麗な跳躍も、目を奪う回転も必要ない。あらゆる制約、たとえばセクシュアリティからも解放された、自然な、ただ美しい人間の身体がそこにある。
作品自体は堅固に構成されていながら、自由と秩序が併存するダンスは、まるでフラクタル幾何学の図形のように流体の運動性に満ちている。舞台の上で、強靭さを内に秘めながらしなやかに踊り続けるダンサーたちを観ながら、水の中にいるような風の中にいるような解放感を感じていた。