1961年6月25日のヴィレッジ・ヴァンガード | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

「ジャズは日付のある音楽だ」と書かれていたのは、たしか寺山修司さんだったと思う。即興で演奏されるジャズにとって、たしかに「日付」は音楽の一部のように切り離せない。一枚の写真に焼きつけられるように、ジャズの中に過去が残る。そして、ジャズが、在りし日のポートレイトを眺める時のように遠い昔をよみがえらせる。


1961年の6月25日は日曜日だった。ビル・エヴァンス・トリオはこの日、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードに出演し、午後5時から午後8時のマチネで2セット、夜10時から夜中の2時までの3セット、あわせて5回のステージで演奏してライブ録音した。その録音から選んで作られたのが『Sunday At The Village Vanguard』と『Waltz For Debby』の2枚のアルバムだ。


どちらもビル・エヴァンスの代表作を誰かが選べば、しばしば挙げられる名盤。演奏がすばらしいのはもちろんだが、それ以外にも理由がある。それは、この2枚が、若きビル・エヴァンスがベーシスト、スコット・ラファロと残した最後の録音であることだ。この6月25日のヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の11日後、スコット・ラファロは自動車事故で木に激突し、即死した。


あまりに深い悲しみにビル・エヴァンスは、のちにスコット・ラファロの死についてこう語った。
--ある他人の存在がなければ、どうしても自分の音楽が成立しない音楽家が、その人間を失ってしまった時、彼は一体、どうすればいいのか……。
若きビル・エヴァンスにとって、スコット・ラファロはそれほどかけがえのない存在だった。そして、『Sunday At The Village Vanguard』と『Waltz For Debby』の2枚のアルバムには、そんなエヴァンス、ラファロ、そしてドラムスのポール・モチアンのトリオが残した、何にも代えがたい音楽が刻まれている。

脚本家・太田愛のブログ-ビル・エヴァンス

ところで、数年前、この61年6月25日の5回のセッションをすべて、しかも演奏された順に録音したコンプリート盤が発売された。そこにはステージで演奏の合間に交わすエヴァンスたちのやりとりが収められているだけでなく、その日、マチネの最初のナンバーとして演奏され、途中で停電のために録音が途切れた“Gloria’s Step”までもが、中断されたままの状態で収録されている。だから、この3枚組のCDを通して聴けば、ビル・エヴァンス・トリオのこの日一日をほぼ追いかけて体験できる。


それはとても不思議な体験だった。ステージを変えて3度演奏される“Gloria’s Step”“Waltz For Debby”“Alice In Wonderland”。どれもそれぞれのアルバムを聴いたときには「特別」の、1度きりの演奏だった。けれども、この3枚を聴いたときの印象は違っている。この日はエヴァンスたちにとって、いつもと同じ一日だった。録音が行われるという、ただそれだけのことで、普段どおりのステージだった。何度かステージが替わり、そのたびにテーブルの客も入れ替わり、彼らはお気に入りのナンバーをくりかえし演奏する。そしてまた、不意に気が向いたかのように“My Foolish Heart”や“I Loves You Porgy ”を一度だけ演奏したりする。耳を傾けている者も、静まり返ったコンサートの聴衆とはちがう。食器の触れ合う音、ざわめき、ときおり聞える笑い声。彼らもまた今、ステージで演奏されている音楽が特別だとは思っていない。


この3枚組を聴いていると、1961年6月25日はそんな一日だったことがわかる。ヴィレッジ・ヴァンガードに居合わせた誰にとっても、何でもなかった一日。とりわけビル・エヴァンス、スコット・ラファロ、ポール・モチアンにとって、いつもどおり自分たちのジャズを演奏しただけの一日。そして、だからこそ、あの頃の彼らの「いつも」がこれほど美しい「特別」の音楽であったことに驚き、彼らがまだそれを「特別」であるとは知らなかった1961年6月25日のヴィレッジ・ヴァンガードに思いをはせる。そして、すべてが過去の日付とともに聴かれる音楽でしかないことに、なぜか胸がしめつけられる。