先日、小雨の降る午後、能『井筒』を観に行く。
『井筒』は以前から観たかった演目のひとつだ。
能『井筒』の下敷きになっているのは、幼馴染の男女の愛の物語。典拠は平安初期の『伊勢物語』第二十三段「筒井筒」。井筒とは井戸のことで、男は歌人・在原業平、女は紀有常の娘といわれている。
世阿弥の謡曲『井筒』の主人公は、この有常の娘。とはいえ、世阿弥の生きた室町時代にあっても、『伊勢物語』の時代は遥かな昔だ。舞台は、ある秋の一日、旅の僧が今も井戸の残る業平ゆかりの在原寺を訪ねるところから始まる。折から穂をひらいた一叢の薄に囲まれた古井戸を前に、旅の僧は昔日の歌人・業平に思いをはせている。そこへ一人の美しい里女が現れる。女は業平の古塚に花を手向け、業平と有常の娘の恋物語を詳しく語った後、自分こそ有常の娘だと告げて姿を消す。ここまでが前段。
実は、僧の出会った里女は、言葉のとおりまさに有常の娘。幼馴染の頃より業平を深く愛しつづけ、「井筒の女」と呼ばれた女の霊は、やがて夜も更ける頃になって再び僧の前に現れる。しかも女は業平の形見の冠・直衣を身につけている。女は自ら業平になって生前の業平を偲び、なお業平を恋い慕いながら舞を舞う。どれほどの時を経ても消えぬ思いの深さ、情の深さが、男の装束を身にまとった女の霊の美しい舞の中に顕現する。それを更に、面をつけた男性が演じているところに能『井筒』の不思議に魅力的な重層構造がある。
以前、読んだあるエッセイの中で、武満徹さんが西洋の劇と能を比較して次のようなことを書かれていた。西洋の劇は対話を土台にし、人間同士の意志の対立や葛藤の果てに日常を超えた劇的なものを見出そうとする。一方、日本の能楽では面や所作の制約によって厳しく「演技」を制し、さらに先に述べたように人物の性差を無化し、この世とあの世のあわいの空間を現出するような重層構造に劇を組み上げることで、人為を超えた自然=「不図」の中に「ふと」出会うものとして劇的なものをとらえようしている。確かそんな趣旨であった。武満さんがその時、例として挙げておられたのも『井筒』だった。能は、つねにゲネプロ(リハーサル)なしで上演されるとのことだが、それも人為を排するがゆえのことかも知れない。
やがて舞を終え、女は静かに井戸に近づくと、その水に目を落とす。月明かりの下、澄んだ水面には、ひと時も忘れたことのない在りし日の業平その人の姿がある。女は、それが形見の装束をまとった我が身なのだと知りながらも、亡き業平へのあふれる思いが口の端からこぼれる。その見事な台詞で『井筒』はもっとも劇的な瞬間を迎える。
―見れば、懐かしや……。我ながら、懐かしや……。
最良の台詞は、なにげない言葉が、劇中の置かれるべきところにピタリと置かれることで生まれると思っているが、まさにそのお手本のような台詞だと思う。『井筒』は世阿弥の自信作だったと伝えられるが、この台詞ひとつをとってもそれが頷ける。全編に伊勢物語からの和歌を巧みに配した謡曲は、シテ(主役の女)と地謡(語りの謡の人々)の掛け合いの構成にも多声的な音楽を聴いているようなスリルがあり、圧巻の詩劇となっている。ますます能の面白さにとり憑かれそうだ。