ブッコブ2015 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

ブッコブ2015

9月以降記事が途絶えたのは、僕がありがたいことに仕事に復帰したためと、読書と言えば雑誌・漫画を除いて柄谷行人、大江健三郎しか読まなくなったためだ。読書が習慣となってこのかた乱読に次ぐ乱読であったけれども、ようやくのこと集中的に読むことの大切さを知るようになった。これが保守化をもたらすのか、新しいスタイルを生み出すのかは不明だが、現在の気分としては、くだらない作品にかかずらうことで時間を失いたくないということだ。

さて、今年、というか昨年読んだ本の中から良作をご紹介する企画も4回目である。もはや初期の頃のような情熱はないので、淡々とご紹介させていただきたい。

評論部門:

良くも悪くも時間だけはあったので、大部を読むことができた。

M・フーコー「言葉と物」(渡辺一民、佐々木明訳、新潮社)
G・ドゥルーズ「差異と反復」(財津理訳、河出文庫)


また今年になってようやく次の本を読んだのだが、やはり名著と呼ばれるものは読んでおいた方がいいと痛感された。

浅田彰「構造と力」(勁草書房)
東浩紀「存在論的・郵便的」(新潮社)
     「一般意思2.0」(講談社)


他に文庫化された名著として次のものを挙げたい。

酒井直樹「死産される日本語・日本人」(講談社学術文庫)

漫画部門:

松井優征「暗殺教室」(集英社)
は1巻からずっと追っていたのだが、ここにきてその建築的完成度が保障されたので、完結の暁には確実にブックオブザイヤーに入る(よって今回は入らない)。

不安と悲しみの日々を慰めてくれたのは仲間りょう「磯部磯兵衛物語」(集英社)だった。これだけ淡々としているギャグマンガというのも珍しいのではないだろうか?

精神の不安から実家に収容されていた時期もあったのだが、その時に読んだのは金平守人「エロ漫の星」(少年画報社)だ。タイトルから偏見をもたずに、と、いうよりもむしろ偏見をもって読んだ方がラストの盛り上がりを堪能することができるだろう。

同じく実家で読んだ漫画からブックオブザイヤーを選びたい。

ブックオブザイヤー

西森博之「お茶にごす」(小学館)
名作「今日から俺は」の作者によるものであるが、後者がエネルギーをあっちこっちに放出させることによって、ある種の力技で作られたものであるのに対して、前者は老獪な技術でエネルギーを一点に集中させた作品であり、完成度だけでいえば「今日から俺は」を超える作品だと思われる。「やさしさ」を与えたり、もらったりする対象であるとのみ考えているひとに読んでもらいたい。

もう一冊。

福光しげゆき「中2の男子と第6巻」(講談社)
登校拒否を起こした中2男子の元に、幻想の師匠=美人のお姉さんが現れて・・・という話であり、最初の数回こそは単に設定ありきの結局日常系に落とすのかと落胆させられそうになるが、あにはからんや、それは作者の企みであり、回を進めるごとに、この作品が相当の野心作であることが明らかにされる。作者は度の過ぎた妄想を平然と語ることにその異常性があるのであるが、その度の過ぎた妄想をツールとして、いよいよストーリー作品に用いだしている。もちろん驚くべきことは、ここにおいても「平然と」それがなされるということだ。

新書:

評論部門との兼ね合いで3冊あげておきたい。

中山元「フーコー入門」(ちくま新書)
小泉義之「ドゥルーズの哲学」(講談社現代新書)
岡本裕一郎「フランス現代思想史」(中公新書)


海外小説:

記事にしたが、フローベール「ボヴァリー夫人」(山田ジャク訳、河出文庫)を読んだ衝撃は忘れることができない。やはり近代小説はその始原において終わっている、あるいは始まっていないのだ。また今年は、A・ロブ=グリエ「消しゴム」(中条省平訳、光文社古典新訳文庫)M・ビュトール「合い間」(清水徹訳、岩波書店)R・ルーセル「アフリカの印象」(岡谷公二訳、平凡社ライブラリー)A・カヴァン「氷」(山田和子訳、ちくま文庫)と、「小説」という概念を批判する志向性としての作品を多く読んだ。そのため、僕はいわゆる「小説」というやつを見限るようになったのだ。

また雑誌"MONKEY"(Switch Publishing)では相変わらず、良作が訳されている。

ディケンズ「眉に唾をつけて読むべき話」(柴田元幸訳、vol.5)
ロンドン「病者クーラウ」(村上春樹訳、vol.7)

日本の小説:

ただつらつらと印象に残った作品をあげてゆきたい。

谷崎潤一郎「吉野葛」(新潮文庫「吉野葛・盲目物語所収)
(この何とも不安定な作品がなぜにひとを惹きつけるかについては、別冊文藝「谷崎潤一郎」(河出書房新社)、小森陽一「緑の物語」(新典社)を読まれたい)

奥泉光「滝」(創元推理文庫「ノヴァーリスの引用/滝」所収)
この方の作品は以前に文芸誌で助教授が主役のものを読んで、あまりのひどい冗長さに呆れかえり、他は読む必要がないなと思っていたのであるが、この作一つで評価が反転した。「男」という概念の偽装された純粋性をあまりに見事に表現しすぎているので、危険な作品であるが、危険でない作品などに何の意味があるのだろうか?

内村薫風「MとΣ」(新潮社「MとΣ」所収)
記事では高評価し過ぎた気もする。最近では時空を跳躍させるものが流行っているので、それに乗っているだけかもしれないが、それでも気になる存在ではある。

筒井康隆「巨船ベラス・レトラス」(文春文庫)
筒井康隆と言えば最後の長編と言われる「モナドの領域」が話題であり、僕も読んだのであるが、というかそれを読んだ後に本書を読んだのであるが、パラ・フィクションの実践が未だ手探りであるのに対し、メタ・フィクションは自家薬籠中の物であり、完成度ではこちらの方が高いと思われる。なので氏には今後も長編を書いてほしいものだ。

中野重治「空想家とシナリオ」(講談社文芸文庫「空想家とシナリオ・汽車の罐焚き所収」
これもまた、小説とは差し引き無となる運動に過ぎないことを暗示している作品であるように思える。

萩原正人「ダメアナ」(伽鹿舎「片隅 01」所収」
基本的に九州でしか買えない雑誌なので、読む機会は制限されるだろうが、だからこそ敢えて挙げておきたい。上ではあまりの「小説」というものに辟易していると書いた。この作品もまた「小説」である、が、その落胆を上回る切実さを感じさせたならば、もはやちょこざいな小説像など不要であろう。

講談社文芸文庫より「現代小説クロニクル」シリーズが刊行されたが、その中から記憶に残った作品も挙げていきたい。

吉行淳之介「菓子祭」(2巻)
古山高麗雄「セミの追憶」(4巻)
目取真俊「水滴」(5巻)
町田康「逆水戸」(6巻)
伊井直行「ヌード・マン・ウォーキング」(7巻)
楊逸「ワンちゃん」(7巻)

また小説ではないが、小沢健二「赤い山から銀貨が出てくる」("MONKEY Vol.6")
は、知を顕示するための道具としか使用できない凡百の小説家たちに読んでもらいたい随筆である。

ブックオブザイヤー:

中上健二「鳳仙花」(新潮文庫)
ただただ、今まで読んでなくてすんませんでした。

と、いうことで、もちこされた2015年の宿題はおしまい。

現在も穴倉読書は続いているので、果たして記事が書けるかどうかも不明ですが、アップしたらよろしくお願いします。