ナメル#6 「MとΣ」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「МとΣ」(内村薫風、新潮社)


単行本「MとΣ」収録作の内、「2とZ」、「MとΣ」を集中的に取り上げる。


いずれの作品も時間的・空間的隔たりを乱暴とも言える仕方で飛び越えるという手法を用いている。例えば、以下に引用するように(「2とZ」より)。


「ニコも息子を脇に抱える。その息子の体の重みは、ニコに負荷をかけるが、そのために──いつか国境を突破する時を想像し──彼は深夜に腕立て伏せを続けていたのだから、まさにニコの筋肉はついに訪れた本番、晴れ舞台に活き活きとするほどだった。強く息子を引っ張り上げ、抱き、周りの人間に後れを取るまいと走る。バッファローの集団さながらに駆ける者たちの一員となる。砂埃が上がり、周囲は茶色に曇る。その足音に、別のところからコツコツと鳴る響きが重なるのが、聞こえるだろうか。ベルリンの壁崩壊の記事が書かれた朝の新聞が風で舞い、それを踏みながら渋谷の雑居ビルの階段を上がってくる、カイドウの靴の音だ」


ここでは冷戦時代のハンガリー─オーストリア間の国境から、2000年代と思われる日本の渋谷へと空間的、時間的に跳躍が行われる。こうした作品内での現象は、2つの作品において頻繁に行われる。


この手法=現象によって作品は何を伝えたいのだろうか?例えば、「2とZ」であるなら「ほどほどに争いを起こし、けれど壊滅的なものにはならぬように調整し、偉い人間たちが話し合いや駆け引きをしている。実際にそうしなくてもよい。そう見せかけることが何より重要だ」ということ、「MとΣ」であるなら意志を越えた暴力の発生とそれを抑止する倫理的意志の普遍性とやらであろうか。だとするならば、これら作品は突飛な手法を用いてつまらぬテーマを呈示する陳腐なものであるという謗りを避けることはできないであろう。


しかし、そもそもの問いが違っているのである。「作品が何を伝えたいのか」、というあたかも作品は何かを伝える輸送器であるかのように考えるその前提が誤っているのだ。私たちはここにおいて手法が何のためにあるのではなく、手法そのものの意義について問わなければならない。


M・フーコーは古典主義時代(17、18世紀)を表徴=名付けることの時代であるとし、事象を説明する言説として脱歴史的・空間的な類似が幅を利かせていたとしている。その後、人類の言説には断層が入り、表徴の限界(合理性の時代)、時代的条件の導入へと変化する。現在の私たちの言説は、科学的合理性を最も妥当な方法としながらも、人文学的領域においては時間的・空間的差異(多様性)の尊重を唱えることによって普遍性そのものに疑義をも挟み込んでいるといったところであろう。類似という言説=方法は忘れさられたのである。


そうした忘却された類似という方法=言説への回帰への志向性そのものがこれら作品の意義であることは、これら作品のタイトルを見てもすでに明らかであろう。類似という方法によって何を示したかになど大した意味はないのである。人類が忘れてしまった言説法を再現していることそのものに意義があるのだ。


文学とは主題ばかりでなく、その手法そのものにも意義があることを忘れてはならない。無論、その手法ばかりでは一発芸の謗りを免れないのも確かではあるのだが。


MとΣ
MとΣ 内村 薫風

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