ナメル#5 「氷」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「氷」(アンナ・カヴァン、山田和子訳、ちくま文庫)


この作品は氷とミソジニーとに覆われている。ここでミソジニーという時、そこには否定的な意味合いも、イロニーとしての積極的な意味合いも含まれてはおらず、あるいは意味合いを見いだすことはせず、ただただ作中を覆う現象であるとしておきたい。


ミソジニーとは下に引用するような、女性に対する単純な憎悪ばかりを指すわけではない。


「女はかたくなな態度を崩さず、台所に引っ込んだ。私はあとを追っていき、力ずくで鍵を奪い取った。特にどうという行動ではないが、少なくともある種の規範を示したことにはなる。女は二度と私に逆らおうとはしないだろう」


むしろミソジニーとは、女性をヴァルナラビリティーの保有者として断定し、保護すべき対象として主観的には愛情を注ぐその心性にこそ見いだされるべき現象である。


これはこの作品の主人公において典型的である。「私」は名を決して呼ばれることのない「少女」を、「少女が最も弱く傷つきやすかったころにシステマティックになされた虐待は、人格の構造をゆがめ、少女を犠牲者に変容させた。物も人間も少女を破滅に導く存在となった。人間、森、フィヨルド。破滅に導くものが何であろうとさしたる違いはない。どのみち、少女はその運命から逃れることはできない。彼女に与えられた回復不可能の傷は、遠い昔にその運命を不可避のものとしてしまっていた」と断定し、保護すべき対象であると執拗に、作中においては世界中を、追いかけるからである。


ミソジニーに染められているのは「私」だけではなく、もうひとりの重要人物である「長官」だけでもない。いわばこの世界の言説がミソジニーに覆われているのである。例えば、一見「私」のミソジニーの異常性を指摘するような裁判のシーンでも、それを見ることができる。


「我々が今取り調べているのは、無垢にして純潔な若い女性に対してなされた極悪非道な犯罪です」


ゆめゆめこの台詞を吐く人物をミソジニーの告発者であると勘違いしてはならない。「無垢にして純潔な」女性こそ守らなければならないというのは、反転させれば、女性は「無垢にして純潔」で、保護されなければならないと考えているからである。


そして、この作中世界がミソジニーで覆われているということは、とうの「少女」もその言説にからめとられていることを示している。


「私」がようやくのこと「少女」の行方を見つけだす。この時、「少女」は「私は……自分で……何とか……自分を……守りたかったの……」と言う。これは一見反ミソジニー的な言説のように思われる。しかし、そのほぼ直後に、次にように言うのである。


「なぜだかはわからない……私にはいつだって、あなたがあんなに恐ろしかったのに……わかっているのは、ただ、私がずっと待っていたということだけ」


相手のミソジニーを自ら受け入れる「少女」の態度を、現在の我々は共依存とでも呼ぶのだろう。しかし、そんなことはどうでもよいことであり、この作中世界がミソジニーに覆われていること、それに対する唯一の反発が見られるとするならば、三点リーダで示される「少女」の口ごもりにあることだけを確認しておけばよい。しかし、その反発はあまりに儚い。


この作品=世界は混乱などしておらず、おそろしく均一化されている。それは世界すべてが氷で覆われるからであり、また世界すべてがミソジニー的言説で覆われるからだ。そこに美しさ、あるいは残酷さを見るのは、当然のことながら読み手の自由である。


氷 (ちくま文庫)
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