ナメル#7 「羆嵐」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「羆嵐」(吉村昭、新潮文庫)

 文学は「健康」と対極のところにあるかのように考えられ、論ぜられることがある。また、同じく「正道」とは対するところにあるとされることもある。つまり、文学は一種の「病」であり、「逸脱」というわけだ。このような二極対立を仕立てあげ、いずれかをそれであると規定できるのであれば、それはどれだけ単純なものであり、貧弱なものであるのだろうか。

 しかし残念ながら、また悦ばしきことに、文学とは一生涯をかけても喰らい尽くすこくとの叶わない豊潤である。それは時に過剰に「病的」であり「逸脱」であることもあれば、時に過剰に「健康」であり「正道」であることもあるし、あまりに「平々凡々」に過ぎることもある。その形容に対する対象とが論理矛盾を起こすとしても、お構いなしに事実において過剰であってしまうという運動こそが、文学であると一応いっておくしかない。

 僕は医学的な診断において寛解に向かいつつある病の持ち主であるといえるが、その方向が過剰を内包しているかどうか知れないし、現在のところその方向性の中に過剰を見いだす意義はなく、直感としては過剰とはいかにもそれがありそうだと意識するところではなく、あまりに自然に意識の上を流れていくようにあるのではないかと思う。しかし、その直感に従って自らの文学という運動を行うかどうかはしばらく自由にしておきたく、今は病のために生じ、病のために中断した、読書の感想という私的な、あるいは公的な仕事を行いたい。

 さきの「文学」の一応の取り決めを適応するのであれば、吉村昭の作品は、その巧みな文章に過剰があるのではなく、下敷きとする事実に過剰がある。そして、その指摘は著者の名を貶めることにはならない。なぜなら事実を、それが「過剰」であると喧しく宣伝しているにもかかわらずまったくつまらない単なる希少な出来事に過ぎないものを「文学」であると宣う者が多い中で、著者はその嗅覚を頼りに独り書くべき事実を選定し、抑制された文章を紡ぎ、静かに置いていくからである。そして、著者の側に過剰を見いだすのであるなら、そうした過剰な事実を見つけずには入られない定に求めるべきであろう。それがどんなにつまらない投影と言われようと、「羆嵐」における銀四郎は著者と重なり、羆とは過剰な事実なのである。銀四郎の熊への志向性は過剰である。

 極限状態における死者の扱い、人を喰った羆の肉を食うというしきたり、自然の無情、いずれも過剰な事実であるが、それをなんらかの学問的技術によって分析することには、私は興味を抱かないし、その能力もない。ただ、過剰であることは明白であるのだからそれで十分である。また著者の過剰の分析にも勿論興味はない。と、するのであれば、過剰を前にしたという出来事を私はただただ紹介すべきであろうか。それもひとつの終結であるかも知れず、感想ではなく批評を書いた者にはそうした人間もあった。小林秀雄である。しかしそれなら面倒をしてたらたら文章をしたためるでなく、これ読めと本を渡せばよいだけの話となり、この文章に生活の糧がかかってなどいない私はなおさらそうするべきだろう。さもなければ単なる時間の損失である。

 しかし、既に文章を書いてしまっている以上、私の中には何らかの動因があるのだ。それが結果損失であったとしても、私は私なりの感想の書き方を模索しなければならない。しばらくの不在の間に環境が変わり、脳が変わった。以後も変わるものと思われる。私は既にそのほとんどを忘れてしまった過去の感想とやらを読み返しながら、いかに人間がインテグレードされておらず、その実底流においてどこか一貫しているものを感じ取った。さしあたっては、この奇妙な矛盾が漂う文章を垂れ流すことになるだろう。