第四どんとこい 「お目出たき人」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「お目出たき人」(武者小路実篤、新潮文庫)


こんにちは てらこやです。


そろそろ年末ということで、ブックオブザイヤーバイマイセルフを考えてみました。今年読んだ本の中では綿谷りさ「蹴りたい背中」(この作品をとりあげた回でも書いた通り、話題の本=読んでたまるものかという病にかかっており、さらに同世代の成功に対する嫉妬もあったため、これまで読んでこなかったのです)あたりが一番おもしろく読めた本になるのかな、と思っていたのですが、それを凌駕するくらいの衝撃的な本が現れました。


武者小路実篤先生の「お目出たき人」です。


ほんのお遊びから武者小路先生の本に手を出して、いつしかすっかりはまってしまったてらこやは、この本によって完全に参ってしまったのであります。


「蹴りたい背中」は、いわゆる恋愛小説ではありません。それは現代の(といっても今からおよそ10年も前の現代ですが)女の子の自己中心性を描いた作品でした。構成上相手役を務める男子学生「にな川」は個性的ではあるものの、所詮は主人公「ハツ」の自己中心性を際立たせるための触媒、背景、ものに過ぎません。恋愛小説をひととひと、あるいはひとにまで昇格させられたものとの、恋愛感情をエネルギーとしたからみあう、あるいはからみあおうとする運動の軌跡とするなら、やはり「蹴りたい背中」はそうした小説ではありません。ハツがただひとりで、くるくるとまわっているだけです。


「お目出たき人」も恋愛小説ではありません。これもまた「自分」という26歳になる青年の空回りを描いただけの作品です。確かに「自分」は「鶴」(人名です)に恋します。しかしその想いは肥大するばかりで一向に相手に伝わることはなく、また伝えようとする行為もみられません(一応ひとを介して縁談を申し込みますが、すぐに断られます。それから後、「自分」は没交渉のままにただ想い続けるだけです)。ここでも「自分」はただひとりで、くるくるとまわるだけなのですが、その回転っぷりがあまりに尋常でないため、強烈な印象をわたしたちに与えます。


「自分は女に飢えている。/誠に自分は女に飢えている。残念ながら美しい女、若い女に飢えている。七年前に自分の十九歳の時恋していた月子さんが故郷に帰って以後、若い美しい女と話した事すらない自分は、女に飢えている。(……)日比谷をぬける時、若い夫婦の楽しそうに話しているのにあった。自分は心秘かに彼等の幸福を祝するよりも羨ましく思った。羨ましく思うよりも呪った。その気持は貧者が富者に対する気持と同じではないかと思った。淋しい自分の心の調べの華なる調子で乱される時に、その乱すものを呪わないではいられない。彼等は自分に自分の淋しさを面のあたりに知らせる。痛切に感じさせる。自分の失恋の旧傷をいためる。/自分は彼等を祝しようと思う、しかし面前に見る時やゝもすると呪いたくなる。/自分は女に飢えているのだ。/自分は鶴のことを考えながら自家に帰った」


恋愛経験、もっと言えば男女の関係を知らない童貞男が、愛しの月子に去られてしまい、この淋しさをどうすればいいのだと混乱していた時に、たまたま近所に住んでいたのが鶴です。もちろん恋愛の発端とは偶発的であり、ひとをひとと認める以前に起こることはよくあることです。しかし、この作品において、鶴は永遠にものに留まります。それは「自分」にとっては、淋しさを慰めるための対象=ものであり、作品構成上は、主人公に空回るエネルギーを供給するための発電機=ものなのです。


「しかし自分はいくら女に飢えているからと云って、いくら鶴を恋しているからと云って、自分の仕事をすてゝまで鶴を得ようとは思わない。自分は鶴以上に自我を愛している。いくら淋しくとも自我を犠牲にしてまで鶴を得ようとは思わない。三度の飯を二度にへらしても、如何なる陋屋に住もうとも、鶴と夫婦になりたい。しかし自我を犠牲にしてまで鶴と一緒になろうとは思わない。/女に飢えて女の力を知り、女の力を知って、自我の力を自分は知ることが出来た。/しかし女の柔かき身体。優しき心。なまめかしき香。人の心をとかす心。あゝ女と舞踏がしたい、全身全霊を以て。いじけない前に春が来てくれないと困る。/自分は自我を発展させる為にも鶴を要求するものである」


非常に現代的ですね。というのも、「自分」は自身にとって鶴がものであることを自覚しているからです。鶴がものであることを意識するためには、そうではない可能性、つまり鶴をひととしてある可能性も想定していなければならないからです。


この作品は明治に書かれたものです。もちろん男女関係は様々だったでしょうが、現代よりももっと、男性は女性をものとしてのみ考えることが可能だったでしょう。世間体の確保のため、労働力のため、性的欲求の慰めのため、男性は自身が犠牲になる可能性など考えに及ぶことなく、女性をものとしてみなすことが容易だったのだと思います。


それを考慮に入れれば、この作品の「自分」がどれだけ現代的に空回りしているのかがわかります。この主人公は、ひとをものとして想っていることを自覚しながら、なおかつそれを止めることができない者として描かれます。


それどころか、ひとと関わらずにひとりくるくるまわる状態に実は耽溺しているのだろう?、と作者はタイトルによって主人公の正体を暴きます。ここまでくると、現代に住むわたしたちは背中をぞくりとさせられます。


近代的な教育を受けている私たちは、ひとをひととみなして関係を築くことの大切さと、面倒くささとを嫌になるほど知らされています。孤独なのはごめんだけど、ひととつきあうのもめんどい。だから、ひとをひととしてみなす関係を築く以前の段階で留まり、空想の中でものと化したひとを弄ぶことに喜びと気安さを覚えます。それを作者は「お目出たき人」と呼んでいるのです。


それにしても、この主人公はおもしろくてたまりません。


「自分はどうもたゞの空想家らしく思えていけない。何事も出来ず。これはと云う面白いこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする」


うん、明らかに考えすぎです。


お目出たき人 (新潮文庫)
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