第三どんとこい 「うちの妻ってどうでしょう?」 | ナメル読書

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「うちの妻ってどうでしょう?」(福満しげゆき、双葉社)


こんにちは てらこやです。


本日は古本とか、中古本、あるいはリサイクル本なんて呼ばれている本について考えてみたいと思います。


なにが原因なのか分かりませんが、本の定価って確実に高くなっていますよね。文庫本でも500円どころか6~700円は超えてくることもざらですし、3桁になる本も珍しくはありません。そこでついつい大型リサイクルブック店や昔ながらの古本屋、またはネット通販サイトを利用して買うことになるのですが、一応、てらこや自身の中では古本に対するルールを設けています。


それは何かというと簡単で、一般の書店でまだ並んでいる本には手を出さないということです。品切れ、絶版になっているであろう本でしか、古本では買わないようにしています。


出版不況と言われて久しいわけですから、おそらく本自体があまり売れていないのでしょう。そしておそらくは、出版業界の人間以上に、実作者はその被害を受けているのだろうと思います。一部の超がつくほどのメジャーどころの作家の本はそりゃばかすか売れているでしょうけど、それ以外のそれほど売れていない作家なんか、一般のサラリーマンよりも不安定な生活を送っているのではないでしょうか?


ただでさえ本が売れないのに、みんなが一般の書店で本を買わず、中古本を買ってしまっては実作者の利益にはなりません。そうすると、当然実作者のモチベーションは下がりますよ。


高等遊民なんてそうそう許されないご時世、優れた小説を書くぐらいの才能をもっているひとは、もっと異なる、儲かる媒体に移るであろうことはたやすく予想できますよね。昔のように、自己表現のメディアも技術も制限されていた時代とは違うのですから。


てらこやには、小説でしか自己を表現できないなんて言葉は空々しく聞こえます。まして自分の生活を省みずに小説を書こうなんて、よほど古い小説家像で思わず笑ってしまいます。小説は金のため、なんて言い切るのにも別の意味での時代錯誤感を感じますが、今の時代「生活することの困難」を軽視することは、現代作家として致命傷といっていいくらいの現実感覚の欠如だと考えます。


だから、現役で並んでいる本の作者を応援する意味でーーいい本を書けば見返りが帰ってくるんだということを示すためにーーてらこやは現役本を一般書店で買うのです。古本屋では買いません。


と、ここまでかっこうのいいことを書きましたが、告白します。実際には、現役の本を買ってしまうことがあります。手持ちのお金がなくてふらふらしている時に、たまたま読みたかった本を見つけると、ついつい買ってしまうんですね。すんません。


でもね、それでも後ろめたい気分は持つのですよ。特にその本が期待通り素晴らしい作品であった場合、作者に対してすまない気持ちと、はしたないことをしてしまったことに対する恥のような感覚を感じます。


ですから、決して大きなことなど言えない立場なのは承知しているのですけど、それでもやはり言いたいことがあるんです。


ネットでブックレビューとか見ることがあるじゃないですか?そう言うときに必ずこういった記述をするひとがいるんですね。「××の本すごくおもしろかった。しかも○○で100円で買えたからチョーラッキー。また同じ作者の別の本も安く探してみよ」


いや、個人の自由ですよ。個人の自由。自分の使えるお金に占める本の優先度なんてひとによってちがって当然。全員が本を定価で買うことを望むことなんてできないんですから。でもね、ブックレビューするくらいなんだから、一応本が好きなんでしょ?だったら、わざわざ現役本を安く買ったなんて誇らしげに書かなくていいじゃないですか、ただ楽しかったと書けばいいじゃないかと思うんですよね。てらこやの感覚の問題なんでしょうけど、そうしたひとには品格がないように感じられます。


なんていうのかな?合法と違法の違いはあれど、楽曲を違法でダウンロードするのを堂々と公言しているのと同じような感じでしょうか?いずれにせよスマートな感じがしない。言ってしまえばダサいです。


なぜこんなことを長々と書いたかというと、今回紹介する福満しげゆきの「うちの妻ってどうでしょう?」は、これまで書いたような書き手自身のグダグダしたとりとめのない考えと、とにかく魅力的な「妻」の行動観察、編集者たちとのもめごと、だいたいこの3つで成り立っているエッセイマンガだからです。


福満しげゆきも第2巻で自嘲気味に示しているように、一般に人気があるのは「妻」関連のお話です。てらこやももちろんしっかりもののようで天然っぷりも発揮する「妻」さんに魅力を感じるのですが、でも、福満しげゆき自身によるグダグダした、とぐろを巻くような考えの吐露のパートもてらこやは好きなんですね。


ある時には、日本のコネコネ社会について書き、ある時はストーカー犯罪について考え、ある時はサエない男がいかに彼女をゲットするかを論ずる。それがどこかてらこやのこころの琴線に触れるんですよね。それが福満しげゆきの素から生じるのか、あるいはある程度の計算がはたらいているのか、それはわかりませんが、そのわからないところも魅力になっててらこやのこころを共震させるのです。


いや、てらこやは福満しげゆきとはちがいますよ。福満しげゆきは、DQNとオタクに分けて、どちらかというとオタクの側につきます。ばんばん女の子とつき合うDQNにはなれなかったと、別の青春回想の本で振り返っています。


てらこやはちがいますよ。てらこやの世代ではイケてる、イケてないといった風に分ける方が分かりよいと思うのですけど、てらこやはどちらにも所属してませんでしたから。ムーミン谷でいうスナフキンのような存在っていえばいいの?イケてるグループも軽蔑して、イケてないグループに混じる気はさらさらなく、ただただ本を読み続けていて、学生時分には誰とも交わらずに小難しい本を読んでいる自分自身をかっこいいと……あれ、文章化してみるとおかしくなってきた。なんだかすごく悲しい勘違い野郎だったみたいじゃないか。いや、本当はすごく寂しい青年時代だったんじゃないか?そう言えば、あまりの孤独感に街の広場で何時間も座り込んでいたこともざらにあったような……。


自分の過去を振り返り、実際に表現するのってしんどいんですね。これを続けている福満しげゆき先生ってすごいや。


もうひとつ、福満しげゆきの優れている点があります。それは擬音に関する感覚です。あらゆる優れた作品に共通しているのは、書き手が新たな、印象に残る擬音語を生み出すということです。有名なところでは、例えば漫画「カイジ」に出てくる「ザワザワ」でしょうか?これが月並みの「ドキドキ」とかだったら興ざめでしょう。


福満しげゆきも、わが幼子のあげる声のステレオタイプ化を徹底して嫌っています。ふつう子どものあげる声と言えば「キャッキャッ」と表現されたり、ひどいのになると「バブバブ」なんて擬音を臆面もなく使ってしまうこともあります。でも、福満しげゆきの生み出した擬音語は、「でーしでーし」であったり「てけ、てけ」であったりします。漫画に精通しているわけではないので、もしも先例があったらどうしようもありませんが、てらこやはこれを、福満しげゆきの感覚の鋭さだと思っています。


福満しげゆき先生は自身の本に関するネット上のレビューをけっこう熱心に、偏執的に探すそうです。なんかの拍子に、今回の回をみてくれたら嬉しいな、なんて自意識過剰なことを考えています。


うちの妻ってどうでしょう?(4) (アクションコミックス)
うちの妻ってどうでしょう?(4) (アクションコミックス) 福満 しげゆき

双葉社 2011-10-28
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