うつと読書 第26回 「寄宿生テルレスの混乱」 | ナメル読書

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「寄宿生テルレスの混乱」(ローベルト・ムージル、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)

こんにちは てらこやです。

光文社古典新訳文庫が好き、と最初から言ってしまうくらい、とにかく好きです。毎月新訳で海外の古典小説が出版されるなんて夢みたい。講談社文芸文庫とおんなじくらい好き。読書好きならば分かってもらえるでしょ?あえて比べるなら、光文社古典新約文庫の方が安価で秀でているような気がします。このシリーズを立案した人は相当の本好きに違いありません。たまたま「カラマーゾフの兄弟」がヒットしたものの、普通に考えればとても採算に合わない企画。それでもこのシリーズは正しい意味で、「文庫本」なのです。

今回紹介するのは、ローベルト・ムージルの「寄宿生テルレスの混乱」です。ムージルと言えば「特性のない男」。しかし、この本は未完なのですね。てらこやは不勉強ながらそのことを知りませんでした。というわけでムージルも初読です。しかし、完全にやられました。

主人公テルレスはエリート養成寄宿舎付き学校に入学します。天賦の才によって学校の生徒側の権力者であるバイネベルク、ライティングの参謀のような立場にたつテルレスは、バジーニが盗みを働いていることを知ります。バイネベルクやライティングは弱みを握ることで、バジーニをいじめます。それに最初は違和感を覚えていたテルレスも、自らの表現できない混乱を解く鍵として、バジーニを性的ないじめの対象とみなすようになる。というのがおおよその粗筋です。

文庫本の帯にも「いじめ、同性愛、語りえないこと」と書いてあるように、本書には印象深いいじめや同性愛をうかがわせる場面が出てきますが、それらは決して「語りえないこと」=「テルレスの混乱」を解く鍵とはなりません。それは物語のはじめ、テルレスが年老いた売春婦であるボジュナに対する想いによって示されます。

「それは、たいていの若者の場合と変わりがなかった。そのときボジェナが清潔で美しく、テルレスがボジェナを愛することができななら、テルレスはボジェナに噛みついていたかもしれない。官能の喜びをふたりにとって痛みまでに高めていたかもしれない。というのも、大人になりかけの人間の最初の情熱とは、ひとりの女にたいする愛ではなく、みんなにたいする憎しみなのだから。自分が理解されないていないと思うこと。そして世間を理解していないこと。そのふたつのことは、最初の情熱にくっついているのではなく、最初の情熱のたったひとつの、偶然ではない原因なのだ。そして情熱そのものが逃亡なのだ。逃亡しているときにふたりでいることは、二重の孤独を意味しているにすぎない」

ボジェナよりも清潔で美しい同学年のバジーニに対するテルレスの興味関心は、この言葉によって問題の解決とはなりえないものであることが早々と予告され、事実その通りになります。テルレスは、性的に凌辱されるボジュナに興味をもちます。しかし、それはテルレスの混乱、自分は何者であるのかという実存的な悩みを解く鍵とはならないのです。

テルレスの混乱は私たちにとってなじみぶかいものでありながら、決してそれを言語化することができません。または、言語化したとたん、その重みを失ってしまうような、そのような性質の悩みです。テルレスにとっても、自分自身の混乱は客体化不可能です。

「ぼくが苦しむのは、その背後に、君とはまったくちがうものを求めているからなんだ。超自然的なものじゃなく、自然なものを求めてるんだ──いいかい、外にはなにも求めていないんだよ──ぼくのなかに求めてるんだ。ぼくのなかに!自然なものを!それなのにぼくは、その自然なものがわかってないんだ!そういうことは、君も数学の先生もほとんど感じちゃいない……ああ、夢みたいな君の理論はもういいよ。ぼくのこと、放っといてくれ!」

「ある思想がぼくのなかで行きはじめたと、ぼくが感じるときには、同時にぼくはこう感じるのです。思想が沈黙しているときに、ものごとを見ていると、ぼくのなかでなにかが生きているのだ、と。それは、ぼくのなかにある暗いものです。あらゆる思想のなかに隠れているけれども、思想では測れないものです。言葉では表現できない生ですが、ぼくの生なんです……」

実存主義がはたしてその思想の背後に、確固たる自己を仮定しているのか、あるいはそんなものなくてもいいと考えているのか、不勉強にしててらこやは知りませんが、主人公テルレスは、言葉にできない、不確定な自己を抱えています。このことは、同作がナチズムを予言していたとかといったことよりもずっと現代的な問題です。

テルレスは何者でもありませんし、何者にもなることができません。自分を何者かであろうとすると常に混乱が訪れる存在として描かれます。そして、このことは、作品中テルレスのみが、盗みをはたらいたバジーニではなく、またバジーニを組織的にいじめようとしたバイネベルクやライティングではなく、ただテルレスのみが学校を去ることによって非常に重要な意味を持ちます。

つまり、組織化された社会(いじめる者─いじめられる者)にとって、もっともやっかいなのは、「何者でもない」こと、「何者にもなれない者」だということを指しているわけです。根源的な問いを発する者(テルレスが無理数に対して数学の先生に発した問いは象徴的です)こそが、もっとも秩序を脅かすのです。

作品はただテルレスを混乱した者としてのみ描き、積極的にも消極的も判断を下すことはありません。

さあ、現代の私たちの社会はこうした存在を許容するまでに至っているのか?こうした存在に対してただ「うるさい」とか、「めんどい」とか、「厨二病だ」といって却下しているのか?それともこうした問いを受け入れているのか?どちらでしょうね?
寄宿生テルレスの混乱 (光文社古典新訳文庫)
寄宿生テルレスの混乱 (光文社古典新訳文庫) ローベルト ムージル Robert Musil

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