フシギバナ研究会

フシギバナ研究会

未解決事件・怪奇事件を中心に紹介します。
日本では未解決事件は時効成立後は捜査はしません。
しかしそのまま忘れていい事件ではないと思っています。
フシギバナ研究会では、読んでいただいた皆様と
事件について話し合っていければと思っています。

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回も短めの内容になりますが

最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 

題名では【二度も地名が消えた土地】と

怖い内容かな??となりますが

心霊系ではないのでご安心ください。

※以下常体にて失礼いたします。

 

【神明町】(しんめいちょう)

昭和の初期に9年間だけ、上神明町/下神明町が存在していた。

この町のそもそもの名前は【上蛇窪】【下蛇窪】という

地名だった。

 

地名に詳しい方なら察する通り、蛇・窪は危険地名に入る。

【上蛇窪】【下蛇窪】は湿地でジメジメしていたこと、

そして実際に蛇も多かったという。

 

 

しかしこの地名では印象が良くないと思い、

昭和7年に神明神社の名前をとって新地名が出来た。

 

その後、昭和16年に上神明町/下神明町は豊町と二葉町に

合併吸収され消滅。

現在は駅名にだけ残っている。

 

 

最後まで読んでいただきまして、

有難うございます。

YouTubeではサイコパス・怖い話を中心にアップしていますので

よかったらご覧になっていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

こんばんは
フシキバナ研究会です。

今回は現在も地名として現存する場所についての
怖い話を書いていきます。
※以下常体で失礼します。

その場所の名前は【鳥首峠】※とりくびとうげ

 



この峠の由来については、諸説ある。
渡り鳥の通り道だったではないかという説。
峠の先が細くて鳥の首のようだからではないかという説。

そして有力な説がもう一つ。
この地を通った落ち武者の首を、付近の住民が取ったことから
「取首峠」となり、現代になって字面が悪いことを理由に
「鳥首峠」になったという説。
この説の裏付けとして、この地域で落ち武者狩りが盛んに
行われていたことは事実である。

最後まで読んでいただきまして有難うございます。
よかったらこちらも見ていただけると幸いです。

 

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は消された地名についてです。

久しぶりの更新になりましたが

最後まで読んでいただけると嬉しいです。

※以下常体で失礼します。

 

 

◆三河島(みかわしま)

三河の名から、三河出身の徳川家康ゆかりの地という話も

あるが、江戸時代にはすでに三河島で地名が残っているため

この説は誤り。

 

本当の由来は、「荒川」「中川」「利根川」の三つの川に

囲まれているため、三川→三河になったとされる。

 

そんな三河島が有名になった事件がある。

昭和三七年、三河島事故と言われる列車衝突事故が起きる。

死者は160名になった日本史上最大規模の事故だった。

 

その6年後

三河島の地名は消滅し、荒川になった。

 

 

◆椎名町(しいなまち)

椎名町という地名は江戸時代から存在していた。

記録によると、椎名町には大きな家が多く、富裕層が

住んでいたとされている。

 

現在は駅名しか残っていないため

駅名はあるが存在しない町になっている。

 

戦後まもない昭和23年

帝国銀行椎名町支店で毒殺事件が起きる。

銀行に訪れた男性が行員に対し、

「赤痢の薬だ」と青酸カリを飲ませ、金を奪って逃げた。

当時、大きなニュースとなり全国に椎名町の地名は知れ渡った。

 

昭和39年

町名は消滅した。

 

余談にはなるが、この椎名町の事件は犯人は逮捕されているが

未解決事件ではないかと言う人も少なくない。

 

 

最後まで読んでいただきまして有難うございます。

よかったらYouTubeも見ていただけると嬉しいです。

 

 

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は幽霊などの話ではなく

昔の人たちが未来に向けた警告【地名】についてです。

では早速、今回の地名です。

※以下常体で失礼します。

 

【阿久津/圷】あくつ

茨城県を中心に多い地名「あくつ」

よく姓にも使われているので、知人にいる人も多いはず。

その地名のもとは【悪土】からきている。

湿地帯や低地で地盤が弱いことが多く、

圷にいたっては、その名の意味が

「土よりも低い」である。

 

塙:高い土地

坪:平らな土地

圷:低い土地

 

現在はその場所も整地されていることが多いので

安心していただきたいが、昔はこうだったと知ることで

万が一に備えることもできる。

※先日、宮城の南三陸に行き、備えの大切さを知ったので。

 

 

最後まで読んでいただきまして、有難うございます。

よかったらこちらも見ていただけると嬉しいです。

 

 

ご感想もいただけると幸いです。

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は怖いというよりも

「そうだったんだ」となっていただけるように

地名について書いていきます。

 

偉人ゆかりの地名

◆有楽町

織田信長の弟

織田有楽斎長益(おだうらくさいながます)の屋敷が

この土地にあったために有楽町になりました。

 

◆六本木

上杉・朽木・高木・青木・片桐・一柳と

木に関連のある名の6つの大名が住んでいたことで

六本木になりました。

 

◆八重洲

江戸時代

日本に漂着したオランダ人

「ヤン・ヨーステン※日本名:やようす」

が家康の通訳となり、屋敷を与えられました。

その場が現在の八重洲です。

 

最後まで読んでいただきまして

有難うございます。

 

怖さが物足りないという方は

こちらも見ていただけると幸いです。

 

 

 

 

 

こんばんは
フシキバナ研究会です。

以前、港区の怖い地名を書いたのですが
その際にコメントをいただきまして
港区には【暗闇坂】という場所もあると教えていただきました。
VX8さん、コメントいただきまして有難うございます。
https://profile.ameba.jp/ameba/vx800

なので今回は港区の続編としまして、
暗闇坂について書いていきます。

※以下常体で失礼します。


【暗闇坂】
東京都港区麻布十番2丁目から元麻布3丁目
名前の由来は昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が茂り、
狭い坂道に覆いかぶさっていたからといわれている。
しかしただ暗いから怖い地名をつけたわけではなさそうだ。
というのも、この暗闇坂は妖怪、幽霊が出没するなどといった
伝説が生み出された場所としても有名である。
そして実際に追い剥ぎなどが現われる物騒な場所であったため
近寄りがたい地名になったといわれている。

暗闇坂、幽霊坂という地名は多くある。
その中でも心霊現象が多いと言われているのは
神奈川県横浜市のくらやみ坂である。

江戸時代の処刑場の近くということもあり、
処刑者の石碑もあることから忌地とされる。
実際に男性の幽霊、女性の幽霊、少年の幽霊と
様々な目撃情報が上がっている。

興味本位ではいかない方がいい場所のひとつである。

最後まで読んでいただきまして有難うございます。
よかったらこちらも見ていただけると幸いです。

 

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は品川区について書いていきます。
忌地好きな方なら、「品川区ならここでしょ」と考えると
思います。
なので今回はそのまま、その場所について書きます。

※以下常体で失礼します。

 

【品川区 鈴ヶ森刑場】

220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑された

と言われている忌地。

多くの人に、怖い場所として認識されている鈴ヶ森刑場跡は、

長い歴史を知ることができる観光スポットでもある。

 


実際に使用されていた処刑場が跡地として残っている

鈴ヶ森刑場跡地は、処刑された多くの人の怨念が残る場所とも

言われている。

鈴ヶ森刑場跡地が現在あるのは日蓮宗大経寺の境内になるが、

日蓮宗大経寺は鈴ヶ森刑場で処刑された無縁受刑者を

供養するために建てられたと言われている。
鈴ヶ森刑場跡地を知るために
まずは歴史から

鈴ヶ森刑場が開設されたのは、

今から300年以上昔の1651年になる。

鈴ヶ森刑場が設置された当時は、浪人の数はとても多かった。

それに伴って急増していったのが、浪人による犯罪行為。

 

江戸で犯罪行為を犯したらどうなるかを知らしめるには、処刑場が一番効果的だった。
江戸の北側の入り口にあった処刑場が、小塚原処刑場。

その反対側の南の入り口に設置されていたのが、鈴ヶ森処刑場。南側は東海道沿いにあり多くの人が出入りする

江戸の入り口の一つだった。

先述したように、浪人に対しての見せしめとして処刑場を

置くなら、浪人が出入りする入り口が最適だった。
江戸時代に起こったとされる「慶安の変」

急増した浪人の中には立身出世を絶った幕府に対する

不満が多く、反乱を企てたとされる。

計画は密告によって阻止される形になったが、

この時の首謀者の一人、丸橋忠弥は処刑された。

その処刑された場所が、鈴ヶ森刑場。

そして、鈴ヶ森刑場が設置されて最初の処刑者となった。

だが、処刑場に連れて行かれた丸橋忠弥は死んでいたが、

磔にされ処刑をされた。
およそ130人近くの人を辻斬りし、自首をした平井権八。

徳川家の御落胤と発し虚偽である事がバレてしまった天一坊。

恋人に会うために放火事件を起こした八百屋お七。

歴史的に名前が残る人たちが処刑されたのも、

鈴ヶ森刑場だった。

その合計が220年の間に10万人から20万人と言われている。

 

そんな鈴ヶ森刑場跡地は心霊現象が多発しているとも

いわれている。

多くの人が目撃しているのが「白い着物を着た女性」

女性の幽霊が目撃されているのは、

処刑された人の首を洗ってたと言われる「首洗井戸」になる。
10万から20万人は処刑されたと言われているが、

当時は無実の人や罪をなすりつけられて処刑された人も

多いと考えられている。

そのため、恨みによる怨念はとても強いと

言われている忌地である。

 

 

最後まで読んでいただきまして有難うございます。

よかったらこちらも見てくれると嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は東京都中野区について書いていきます。
怖い地名ではなく、こんな跡地だったんだという内容です。
※以下常体で失礼します。

 



東京都中野区の【旧犬屋敷】。
中野区の犬屋敷?
中野ブロードウェイと中野四季の森公園の間に
犬の銅像がいくつかあるのですが、
ここは昔、保護された犬の犬屋敷(収容施設)
があった場所。
徳川5代目将軍綱吉が動物や子供、
病人などを保護する生類憐みの令を制定し、
綱吉にならって江戸の人たちはこぞって犬を飼い始めた。
しかし次第に飽きた人たちが犬を捨てて
江戸は野良犬だらけになってしまった。
そこで綱吉は犬屋敷をつくったというわけ。
多い時には10万頭が保護され、
5つに分けた場所に暮らしていた。
その面積東京ドーム20個、
巨大な町になっていった。
しかも食事は、当時高級品であった米に魚に味噌、
費用は年間100億円ちかくだった。

中野区は昔縁があって、かなり怖めの場所も
書こうか迷ったのですが、
※東京都中野区弥生町3丁目マンションの事件
機会があれば書いてみますね。

最後まで読んでいただきまして、有難うございました。
よかったらこちらもお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

YouTubeの感想も教えていただけると嬉しいです。

 

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は文京区について書いていきます。

もしかしたら近くにお住いの方は気になったことも

あるかもしれません。

 

その場所は【小日向1-14と24の間にある、かなり急な坂です。

自転車をこいで上がるのはかなり厳しく、

雪がふれば車でも無理なくらいです。

正直崖といってもいい場所になぜ無理やり坂を

作ったのでしょうか。

※以下常体で失礼します。

 

 

この坂の名前は【切支丹坂】

 

 

 

江戸時代にキリスト教徒が幽閉され、

命を落とした切支丹屋敷があった。
切支丹坂はその屋敷に向かう坂道である。


坂の上を右に曲がると小さな石碑があり、

そこが切支丹屋敷の跡地。


ローマ教皇の使いとして1708年に日本に来た

シドッティ神父もここに幽閉された。

宣教活動はしないという条件で軟禁されていたが、
彼に敬意を抱く世話係の夫婦に

ひそかに洗礼したことが発覚し、

地下牢に監禁されその後病死した。

 

イタリア人宣教師シドッティ神父の遺骨も、

跡地にマンションを建築する際の調査の際に

発掘されてた。

その遺骨はしっかりと供養埋葬されたものではなかった。


1725年に江戸の大火で屋敷は燃え

その後再建はされなかった。

 

最後まで読んでいただきまして有難うございます。

よかったらこちらも見ていただけると嬉しいです。

 

 

 

 

 

こちらの感想もよかったらお願いします。

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は東京都荒川区です。

荒川区といえば、谷根千の夕焼けだんだん、

日暮里だったりするのですが

私、個人的には、仲間由紀恵阿部寛の

トリックの山田の家がある場所の印象です。


この荒川区、かなり闇が深くて、残穢が強いです。
この荒川区はもしかしたら、

実際の写真などをいれて深堀記事を作るかもしれません。


さっそく本題へいかせていただきます。

※以下常体にて失礼いたします。

 


南千住は江戸時代から明治時代にかけて、

小塚原刑場(こづかはらけいじょう)と呼ばれる処刑場だった。

20万人以上の罪人がここで刑を執行された。

あちらこちらに骨がゴロゴロと転がっていたから

『コヅカハラ』という地名になったという説が有力で、

処刑された人たちを弔うために建てられたのが

回向院というお寺と首切り地蔵。

これは南千住5丁目に現在もある。

 


その後つくばエクスプレスの線路工事のため

寺は道路・線路を挟んで南北に分断され、

首切り地蔵のある南側は延命寺として独立した。

この工事の際もかなり人骨がでたという話なので正直、

こういった工事を現在で行っていない場所には

まだ埋まっていると思われる。


実際に処刑が行われていたのは南側の延命寺側であり、

今でもその地に立つと寒気がするという声も多く聞かれれいる。
※首切り地蔵の大きさは4m。

 左ほほに涙の流れたような跡がある。

 


また近くの商店街の名前は『コツ通り』

台東区との間に泪橋がまだ交差点、文化ホール名にも残り、

これは、処刑される人との最後の別れになる橋が

ここにかけられていたことから、涙の別れを表した場所だった。


日本各地で戦争は行われていたので、

どこでも死人は出てるよねと思われる人も多いと思うが、

本当に霊感というか敏感な方はここは辛いようだ。
というのもこの処刑場は少しほかと違っていて、

骨ヶ原 小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が

執行された。
死体はそのまま野ざらしとされたり、丁寧に埋葬せずに

申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が

充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような

有様だった。

このエリアが南千住5丁目と2丁目。

 


この南千住2丁目は他にもあって、

南千住2丁目の浄閑寺周辺は身寄りのない遊女たちの遺体が

担ぎ込まれた場所

「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に

『~売女』という戒名で文字通り投込まれた」という説もある。当時は引き取り手のいない「吉原遊郭」の遊女たちの亡骸を

葬る場所として使われており、1855年の「安政の大地震」の際には500人近くもの遊女が投げ込まれるように

次々と葬られたことから「投げ込み寺」と呼ばれるように

なった。

境内には歴史を感じさせるたくさんの史跡があるが、

特に不気味さを感じるスポットが「新吉原総霊塔」と

「首洗い井戸」
・新吉原総霊塔
1793年に遊女を供養するための供養塚として造られたもので、1929年に供養塔へと改修された。浄閑寺によると、

遊女以外の人たちも含め、江戸時代から昭和までの間に

2万5000人以上がこの場所で葬られた。


・首洗い井戸
浄閑寺の見どころは、遊女にまつわるところだけではない。
「首洗い井戸」は、江戸時代に「本庄兄弟」の兄が親の仇討ち

に失敗して「平井権八」という武士に殺され、

弟が兄の首を洗った井戸。

その隙をつかれ、弟もここで命を落としたと言われている。

近くにはふたりの霊を慰めるための首塚もある。

 

 

 

だらだらと書いてしまい、読みにくかったと思います。
最後まで読んでいただきまして有難うございます。

 

よかったらこちらも見ていただけると嬉しいです。