【東京都品川区】品川区で一番有名な忌地 鈴ヶ森刑場① | フシギバナ研究会

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未解決事件・怪奇事件を中心に紹介します。
日本では未解決事件は時効成立後は捜査はしません。
しかしそのまま忘れていい事件ではないと思っています。
フシギバナ研究会では、読んでいただいた皆様と
事件について話し合っていければと思っています。

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は品川区について書いていきます。
忌地好きな方なら、「品川区ならここでしょ」と考えると
思います。
なので今回はそのまま、その場所について書きます。

※以下常体で失礼します。

 

【品川区 鈴ヶ森刑場】

220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑された

と言われている忌地。

多くの人に、怖い場所として認識されている鈴ヶ森刑場跡は、

長い歴史を知ることができる観光スポットでもある。

 


実際に使用されていた処刑場が跡地として残っている

鈴ヶ森刑場跡地は、処刑された多くの人の怨念が残る場所とも

言われている。

鈴ヶ森刑場跡地が現在あるのは日蓮宗大経寺の境内になるが、

日蓮宗大経寺は鈴ヶ森刑場で処刑された無縁受刑者を

供養するために建てられたと言われている。
鈴ヶ森刑場跡地を知るために
まずは歴史から

鈴ヶ森刑場が開設されたのは、

今から300年以上昔の1651年になる。

鈴ヶ森刑場が設置された当時は、浪人の数はとても多かった。

それに伴って急増していったのが、浪人による犯罪行為。

 

江戸で犯罪行為を犯したらどうなるかを知らしめるには、処刑場が一番効果的だった。
江戸の北側の入り口にあった処刑場が、小塚原処刑場。

その反対側の南の入り口に設置されていたのが、鈴ヶ森処刑場。南側は東海道沿いにあり多くの人が出入りする

江戸の入り口の一つだった。

先述したように、浪人に対しての見せしめとして処刑場を

置くなら、浪人が出入りする入り口が最適だった。
江戸時代に起こったとされる「慶安の変」

急増した浪人の中には立身出世を絶った幕府に対する

不満が多く、反乱を企てたとされる。

計画は密告によって阻止される形になったが、

この時の首謀者の一人、丸橋忠弥は処刑された。

その処刑された場所が、鈴ヶ森刑場。

そして、鈴ヶ森刑場が設置されて最初の処刑者となった。

だが、処刑場に連れて行かれた丸橋忠弥は死んでいたが、

磔にされ処刑をされた。
およそ130人近くの人を辻斬りし、自首をした平井権八。

徳川家の御落胤と発し虚偽である事がバレてしまった天一坊。

恋人に会うために放火事件を起こした八百屋お七。

歴史的に名前が残る人たちが処刑されたのも、

鈴ヶ森刑場だった。

その合計が220年の間に10万人から20万人と言われている。

 

そんな鈴ヶ森刑場跡地は心霊現象が多発しているとも

いわれている。

多くの人が目撃しているのが「白い着物を着た女性」

女性の幽霊が目撃されているのは、

処刑された人の首を洗ってたと言われる「首洗井戸」になる。
10万から20万人は処刑されたと言われているが、

当時は無実の人や罪をなすりつけられて処刑された人も

多いと考えられている。

そのため、恨みによる怨念はとても強いと

言われている忌地である。

 

 

最後まで読んでいただきまして有難うございます。

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