こんにちわ。
フシキバナ研究会です。
今回は東京都中央区についてお話させていただきます。
中央区といえば、銀座に日本橋といった昔の流行の中心地、
今でいう渋谷新宿のようなイメージでしょうか。
その中央区について気になる土地の話しをさせていただきます。
日本橋といえば徳川家康が初めてかけた木製の橋がかかった
場所なんですが、現在は20代目とかですね。
東京の守護を獅子、東京からの発展で麒麟の銅像があります。
吉原、遊郭といえば台東区にある印象だとおもいますが、
そもそもはその日本橋にあったとご存じでしょうか?
吉原が台東区千束にうつってできたのが日本橋なんです。
江戸時代、慶長18年(1613)に庄司甚左衛門が、
現在の日本橋人形町2、3丁目のあたりに遊女屋を開業
しました。
その場所は、海岸近くに葦が茂るとても寂しい場所だった
ために、「芳原」から「吉原」と名称が名付けられたといい
ます。
その後、明暦2年(1656)に幕府は吉原の移転を命じました。
候補地としては浅草寺の裏の日本堤か、本所とされており、
沼地だった日本堤を島のように遊廓の形に整え、
現在のようになりました。
もともと幕府が庄司甚左衛門に許した土地が日本橋ですが、
ここはそもそも当時の江戸では僻地でした。
ただ遊郭は大盛況で町も栄えていったそうなんです。
でも幕府は遊郭を1640年に遊郭を禁止しました。
このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、
その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだったそうです。
現在の吉原の形ですね。
しかしそんな栄えた吉原も1656年に幕府から移転を命じられてしまいました。
このころの遊郭は多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にも
かかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもありました。
さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しい
ファッションとして始まったことからも分かります。
そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、
音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で
評判となりました。
ここからが闇深い話なのですが、幕府の許可を得て江戸の
僻地で開業した吉原。
しかし幕府から1656年に移転の命令がでました。
吉原の歴史の中でも、その後移転して現在の吉原に移動と
なっているのですが、ちょっと疑問に思いませんか?
文化の発信地としてまで影響力があった吉原が、
簡単に移転すると思いますか?
現在に置き換えても簡単に立ち退きなんかしないですよね。
そしてその翌年に起きた有名な事件はご存じでしょうか?
1657年に起きた事件、それは明暦の大火です。
江戸の大半を焼いて、約10万人の死者を出した世界三大火災
の一つです。
明暦の大火は江戸時代の3大火事で江戸の約6割を焼失し、
江戸城天守も炎上し、死者は10万人を超えたと言われています。
1657年に起きた江戸最大の火事ですが、
その出火、火元の原因として本妙寺出火説、火元引受説、
幕府放火説とたいへん謎めいています。
幕府は放火と決めつけ20名を放火犯として
処刑し終わらせたわけですから余計に怪しくも感じます。
本妙寺出火説は明暦の大火が振袖火事と言われている説です。
17歳の娘が寺小姓に恋をし、
彼が着ていたのと同じ紫縮緬の振袖を仕立ててもらうが、
彼に会えずに亡くなってしまいました。
娘は本妙寺に葬られ、振袖は古着屋に売られました。
翌年今度はその振袖を古着屋から買った娘が
同じように17歳で亡くなり本妙寺で葬られ、
再び振袖は古着屋に引き取られていきました。
また次の年に本妙寺で同じことが起き因縁に驚いた住職は
供養の為に振袖を護摩の火に投げ込んだ。
その瞬間に風が吹きつけてきて火のついた振袖が舞い上がり
本堂へと燃え広がったのが大火の原因と言われています。
火元引受説は本妙寺の隣の老中阿部忠秋邸が本当の火元で
あるが幕府に頼まれて本妙寺が火元であると引き受けたのでは
という説です。
理由はこれだけの損害を出したにもかかわらず火元の本妙寺が
なんのお咎めもなく、現地に再建を許され、
大火の10年後に触頭職に任命され寺格を上げているからです。
さらに恐ろしいのが幕府放火説です。
放火の理由は飽和状態の江戸の町を
一挙に整備したかったからと言われています。
前年に吉原を日本橋から浅草に移す計画も決まり、
いろいろと整備計画を始めている時期でした。
しかし江戸城も被害を受けていますし、
火元が3か所もあるのは不自然ではあります。
江戸最大の大火の真相は謎のままのようですが、
その後の江戸の町づくりと防火対策にはかなりの進歩が
あったことには間違いありません。
私個人としては3番目の幕府放火説が有力かなとは思ってます。
その時の江戸の人口過多はかなりひどく、毎日のように殺人も
あり、区画整理したいが古くからそこに住んでいる有力者、
特に神社やお寺は猛反発していたようなので、
話が進まない状態での火災。
しかも火が収まりそうになるとまた火災というのは
少し怪しい気もします。
幕府説ではないという意見の火元が3箇所というのは
逆に自然に燃え広がったものではないとも取れるので、
前二つの説ではない根拠にもなると思います。
また、江戸城や幕府関係者にも被害者は出ているという説も、
まったく被害がなければ怪しいので、少しは被害を出させる
のは当たり前のように感じます。
ただこの事件で元吉原は甚大な被害がでて、
生き残った方が燃えてしまった元吉原から千束に移動して
今の吉原ができたというわけです。
そして元吉原には現在三越本店や高島屋などそうそうたる
商業施設ができ、道路から建物まで区画整理も終わったのです。火災後に区画整理した地図をみるとほぼ現在の東京になるんです。
なにか不思議なお話ですよね。
重大な事件があったときはだれが一番得をするかを
考えるようにするのですが明確な気がしますね。
最後まで読んでいただきまして有難うございます。
よかったら他の話もあるので聞いてみてください。