【東京都荒川区】かなり強めの忌地 | フシギバナ研究会

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未解決事件・怪奇事件を中心に紹介します。
日本では未解決事件は時効成立後は捜査はしません。
しかしそのまま忘れていい事件ではないと思っています。
フシギバナ研究会では、読んでいただいた皆様と
事件について話し合っていければと思っています。

こんばんは

フシキバナ研究会です。

 

今回は東京都荒川区です。

荒川区といえば、谷根千の夕焼けだんだん、

日暮里だったりするのですが

私、個人的には、仲間由紀恵阿部寛の

トリックの山田の家がある場所の印象です。


この荒川区、かなり闇が深くて、残穢が強いです。
この荒川区はもしかしたら、

実際の写真などをいれて深堀記事を作るかもしれません。


さっそく本題へいかせていただきます。

※以下常体にて失礼いたします。

 


南千住は江戸時代から明治時代にかけて、

小塚原刑場(こづかはらけいじょう)と呼ばれる処刑場だった。

20万人以上の罪人がここで刑を執行された。

あちらこちらに骨がゴロゴロと転がっていたから

『コヅカハラ』という地名になったという説が有力で、

処刑された人たちを弔うために建てられたのが

回向院というお寺と首切り地蔵。

これは南千住5丁目に現在もある。

 


その後つくばエクスプレスの線路工事のため

寺は道路・線路を挟んで南北に分断され、

首切り地蔵のある南側は延命寺として独立した。

この工事の際もかなり人骨がでたという話なので正直、

こういった工事を現在で行っていない場所には

まだ埋まっていると思われる。


実際に処刑が行われていたのは南側の延命寺側であり、

今でもその地に立つと寒気がするという声も多く聞かれれいる。
※首切り地蔵の大きさは4m。

 左ほほに涙の流れたような跡がある。

 


また近くの商店街の名前は『コツ通り』

台東区との間に泪橋がまだ交差点、文化ホール名にも残り、

これは、処刑される人との最後の別れになる橋が

ここにかけられていたことから、涙の別れを表した場所だった。


日本各地で戦争は行われていたので、

どこでも死人は出てるよねと思われる人も多いと思うが、

本当に霊感というか敏感な方はここは辛いようだ。
というのもこの処刑場は少しほかと違っていて、

骨ヶ原 小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が

執行された。
死体はそのまま野ざらしとされたり、丁寧に埋葬せずに

申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が

充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような

有様だった。

このエリアが南千住5丁目と2丁目。

 


この南千住2丁目は他にもあって、

南千住2丁目の浄閑寺周辺は身寄りのない遊女たちの遺体が

担ぎ込まれた場所

「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に

『~売女』という戒名で文字通り投込まれた」という説もある。当時は引き取り手のいない「吉原遊郭」の遊女たちの亡骸を

葬る場所として使われており、1855年の「安政の大地震」の際には500人近くもの遊女が投げ込まれるように

次々と葬られたことから「投げ込み寺」と呼ばれるように

なった。

境内には歴史を感じさせるたくさんの史跡があるが、

特に不気味さを感じるスポットが「新吉原総霊塔」と

「首洗い井戸」
・新吉原総霊塔
1793年に遊女を供養するための供養塚として造られたもので、1929年に供養塔へと改修された。浄閑寺によると、

遊女以外の人たちも含め、江戸時代から昭和までの間に

2万5000人以上がこの場所で葬られた。


・首洗い井戸
浄閑寺の見どころは、遊女にまつわるところだけではない。
「首洗い井戸」は、江戸時代に「本庄兄弟」の兄が親の仇討ち

に失敗して「平井権八」という武士に殺され、

弟が兄の首を洗った井戸。

その隙をつかれ、弟もここで命を落としたと言われている。

近くにはふたりの霊を慰めるための首塚もある。

 

 

 

だらだらと書いてしまい、読みにくかったと思います。
最後まで読んでいただきまして有難うございます。

 

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