天才トムでも顔が通じないとこだってある。
自己紹介で「俺は天才だ!」と真顔でぬけぬけ言う奴はさすがに洋の東西を問わず少ないだろう。車に同乗して初めて会ってこう言うトムにこっちが思わずマジかねと見つめる。そんな疑心も今のグローバルのトイ・ビジネスで彼の稀有の実績から見れば恥ずかしい。
アイデアを代理してメーカーに販売し黒子の筈のキャリアではあっても、それなりに大成功していた一匹狼が、60代の後半の歳から一流のグローバル規模のメーカーを立ち上げ、大成功というコースはやはり、凄いことだ。
その分、強烈な個性の臭さだ。毎年、ロンドン見本市の初日のディナーでは、正直、あまりそのテーブルに座る奴はいない。でも私は座るほうかな。話しがどうということよりも、名物男と一緒にいる奇妙な雰囲気。
その彼も息子のデビッドと日本に良く来ていた時は、飯はどうだと言う。と言っても金持ちは払わないものだね。しかもあの連中はホテルのレストランでのディナーを嫌う。しょうがない。ホテルの近く日比谷の和風へ誘う。ある年、デビッドと自分等で行ったそうだ。満員で入れない。「天才」とは顔だけでレストラン側が判るもんか。断られるや、「俺はgeorgeの大親友だ。」というセリフでマネジャーがすぐテーブルを用意してくれた。ザマーミロ。今でもこれだけかな、私の貸しは。尤も、その翌年今度はロンドン・ウエストエンドで彼のレデイと北京ダックをご馳走になったから帳消し。よくあの「ちび」で失礼だがあの顔?でイギリスの貴族の娘を娶れたものだ。しかもそれは彼が自分の故郷ハンガリーでDr.ルービックを見つけ出し、後に世界に紹介し、大金持ちに成るずっと前のことなのだから。
ゲームの売込みにはトムのあの押しが極意かと勉強させて貰って来たが、人生の最後に、しかも息子が離れてしまった後で、グローバル大手をも脅かす一大メーカーを4、5年で造り上げるとは、全くオドロキ。ゲームの世界では良くても悪くても、いわゆる「キャラクター」と呼ばれる男が運を興すのだろう
「お宝ゲーム」とは知らなかったボブの徹夜
また、“Game Market”の時期がやって来た。再来週の日曜日、浅草の会場にはリュックを背負ったり、思いのままの恰好のゲーム・マニアが大勢集まってくる。ジュンさん初め、主催者には大変なご苦労をお掛けすることになる。日本のアナログ・ゲームの風物詩とでも云えるだろう。
ドイツにはエッセン、アメリカにはジェンコンがあって、強烈なゲーム愛好者の大切なゲームに触れる機会になっているが、日本のGame Marketもいつかはあの情熱と興奮に溢れるエッセンのように、世界からもファンを集める有名催事かな。
Game Marketでの売り物の一つはやはり、「お宝ゲーム」のオークションだろう。今では手に入らないゲームというのは愛好家にとって、お金をかけるのはすこしも惜しくないようだ。いつか友人から聞いた話で、私はその場に立ち会わなかったが、初の日本語版“ピクショナリー”がオークションに掛かったそうだ。しかも凄い高値で売れたということだった。
もし、その売れたピースが発明者・著者、ボブのサインつきのものだったら、それこそ、わずか2,000部 限定出版のひとつだから、私でも取っておきたいものだ。アメリカで‘ゲームで億を成す’代表格の1人、ボブが近所の友人と遊び始め、執念であのビッグセラーにしたPictionaryは全米で嵐のようなプームだった。その勢いの延長で日本でも紹介せざるを得ないお役目になった。だが日本はボードゲームが弱い。どうしてあの面白さを知らせる?さんざ考えた挙句、ボブに責任の一端を負わせる。彼を1週間ホテルに缶詰にして、毎晩、同じサインでもくもくペンを走らせる。銀色の豪華な帯を2,000枚用意してやった。うんざりしたのは本人ひとり。周りのテリー、リチャードと私でなだめすかし、出来上がった2,000部はやはり豪華だった。
のちに、ゲームのおかげ (?)で、凄い美人を娶り、ある日の豪華世界旅行。ついでに日本に寄る。アメリカン・ドリーム実現で、もはや何も悩まされることの無いボブが日本酒で酔いながら、あの徹夜の苦労をくどくど言う。隣りに寄り添う美人は、しかし、もっと彼をこき使ってくれという顔でしゃぶしゃぶをぱくついていた。やはりゲーム成金は誰しもの‘夢’。果たして、何人、誰が、今度のGame Marketでボブのように金脈を当てることだろう。
男泣きのミーハはどこへ行った。
毎年、この4月の時期に破いて捨てる手帳がある。ミーハが友人全員にくれる世界見本市でのアポイント手帳だ。メルボルンの見本市がこの4月7日の月曜日で終り、1月初頭の香港から始まった国際フェアーもこれでシーズン切れ。会場をコマねずみのように飛び回った記録が紙面一杯に懐かしい。
惜しいけど、用無しになったミーハの手帳を破いて捨てる。そして又、はるか先、今年の暮れに届くであろう1年のごあいさつ手帳を心待ちしている自分になる。そんなミーハは今年もニュールンベルグで妹のマリアンナとスタンドでひっきりなしの友人の握手ぜめだった。Georgeは本当に真のこころの、そしてながーい戦友だと、連れの息子に上手いことを言う。
今は世界の大手に売りを任せたり、上手く地域ごとにすみ分けたりと、ご安泰になったラミーキューブだが、彼が妹と2人で死んだオヤジの発明品を相続し世界に広げる初期の苦労は生易しいものじゃなかった。なにせ世界の田舎のイスラエルからの発信の遊びだから。当初アメリカでぼちぼちだったのが、ある晩、エリザベス・テーラーが凄くやみつきになったとテレビで喋った途端、ものすごいデマンドが起こった。喜んだのも束の間、生産がイスラエルの自家工場ではとても間に合わない。台湾、韓国、世界の工場を拝み歩いたそうだ。それより彼を驚愕させたのは、アメリカのトイ業界仲間の貪欲さ。ミーハの先を越して片端から類似品を入れてしまう。ミーハの収穫は手から水がどんどんもれる始末。
そんな時期だっただろう。冬のニューヨークのカフェで、ミーハは語りながら、一人で悔しがり、男泣きに泣き出した。ユダヤ人というのは非常に情感激しいというか感情的なタイプが多く、彼はその最たるタイプ。あたりかまわずの男泣き。男の悔しさの表現はああこれだなとそのまま。その年から私も日本で紹介しゲームの普及にお手伝いすることになる。それで彼の良い生涯友人のひとりかな。彼に勧めてミーハは世界選手権を決心する。日本から若いクワバラくんと参加し、もう生涯行かぬエルサレムの「嘆きの壁」との対面も彼のおかげ。
今日も東京の売場にラミーキューブは並ぶ。類似名の商品もついでに結構出ている。だがあの時の男泣きのミーハはもういない。居るのはゲームを通して心を通わした友人が世界中にいて、今が一番良いなあ、と思っているだろうミーハだけだ。