今回は、日本語教育について語って、そこから今の日本の状況について話を拡げてみようと思う。
僕は東日本大震災が起きる前、一年ばかり日本語教師をやっていた。
2010年の4月から日本語学校に非常勤講師として勤務することになった。
僕は新米の教師ということもあり、他の教師の授業を参考にさせてもらおうと、ある教師の授業を見学させてもらった。
実際の授業の様子を見て、僕はものすごい衝撃を受けた。
何に衝撃を受けたかというと、その教師のレベルのあまりの低さにだ。
とても日本語を外国人に教えられるレベルに達してるとは思えなかった。
他の教師の授業も見学させてもらったが、その教師のレベルも似たようなものだった。
授業を見学させてもらったのは二人だけだが、その他の教師も日本語教育について意見を交わしてみると、彼らもだいたい
同じ程度のレベルと思われた。
その日本語学校自体の教師レベルが相当低かったようだ。
僕から見ると、彼ら教師はど素人で、
「この人は語学教育をなめてるのか」と思ったほどだ。
どういうことかというと、彼らは日本語教育の基本中の基本がわかっていない。
例えて言うと、料理人を名乗っているのに、米の研ぎ方がわからないとか、包丁の研ぎ方がわからない人みたいなものだ。
専門的な話はあまり面白くないかもしれないが、日本語教育というものについて語ってみよう。
語学教育というと、きっと多くの人は中学、高校の英語学習を想像する。
英語を日本語に訳しながら教える英語学習だ。
だから、日本語教師が中国人に日本語を教える時は中国語を使って日本語を教え、アメリカ人なら英語を、韓国人なら韓国語を使って教えるのだと思っている。
しかし、日本語学習の場合のメインの教授法はコミュニカティブアプローチと言って、日本語を教える時に外国語は使わない。日本語で日本語を教える。日本語教師に外国語能力は必要ない。
ただし、媒介語(学習者の母語)を使わない分、それなりのスキルが必要だ。
僕が、その日本語学校の教師がわかっていないと思った日本語教育の基本中の基本とは何か?
それは、
日本語教師は、日本語を母語としない外国人の視点に立って、日本語を見るということ。
それが出来なくては、とても日本語教師にはなれないのだ。
そこそこ日本語が話せる外国人も、僕らが思っているほどには日本語がわかっていない。
例えば、僕が初級程度の日本語を習得した外国人と友だちになって、ラーメン屋に行ったとする。
そこで僕がラーマンを食べながらこう言ったとする。
「おいしいね」
或いは
「おいしいよ」
と言ったとする。
或いは
「おいしいよね」
と言ったとする。
この三つの微妙な言い回しの違い。
日本人なら幼稚園児でもわかる。だけど、日本語を母語としない外国人の場合は、全部同じ意味に聞こえてる可能性が極めて高い。日本語の上級者でもわからない人がおそらく多い。「おいしい」の部分はわかるだろう。「おいしいはデリシャスの意味だ」ということはわかるはずだ。
だが、「おいしいね」と「おいしいよね」の違いはなかなかわからない。
外国人学習者にとって、よほど日本語を話しこまない限り、日本語を生き生きとした言語としてはなかなか認識できないのだ。
そう言えば、何回か前のブログでスマナサーラ長老の四無量心の「喜」について語った動画を紹介した。
その時、スマナサーラ長老はこんなことを言った。
「うちの子は大学合格しました。喜び、楽しいでしょう」
皆さん、この日本語に違和感を抱きますよね。
スマナサーラ長老は日本に来て、何十年も経っているはずだが、「楽しい」という言葉の意味をまだ正確には把握していないようだ。楽しいは、自身の行動に伴う情動であって、野球をするのが楽しいとか、映画を見るのが楽しいとか、人と話すのが楽しいという使い方はいいが、子供が大学に合格したのは楽しいという使い方はおかしい。おそらくうれしいの意味で言っていたのだろう。あれだけ流暢に日本語をしゃべっていてもそうなのだ。
日本語教師は外国人にとっての日本語というものをよく理解していなくてはいけない。
自分が話している日本語が、生徒にどう聞こえているか想像して、言葉を選ばなくてはいけない。
日本人なら子供でも簡単に理解できることでも、外国人にとっては極めて難解になる言葉の言い回しが何なのかを知らなくていけない。
その日本語教育の基本中の基本を、その日本語学校の先生たちは全く理解していないように見えたのだ。
ちょっとくどいようだが、日本語教育に興味がある人もいるかもしれないので、もう一つ例を出そう。
興味のない人は以下の十数行はスルーしてもいい。
「坂の上を石がコロコロ転がる」
「坂の上を石がゴロゴロ転がる」
「坂の上を石がゴロンゴロン転がる」
といった場合も微妙なニュアンスの違いがあるけれども、外国人の場合は、聞き取れていたとしても、全部同じ意味に聞こえてる可能性が極めて高い。単に石が転がってるんだなあと。日本人だったら、ゴロゴロは重い石が転がってるイメージが、ゴロンゴロンは重い石が弾みながら転がってるイメージが沸くと思う。そのニュアンスはなかなか外国人には伝わらないと思った方がいい。
なお、コロコロとかゴロゴロとか、ビクビクとかドキドキとか、ズキズキとかヒリヒリとか、こうした擬態語を初級の生徒にわかりやすいように教えるのはかなり苦労した。
あの日本語学校で、それをわかりやすく教えられるのは僕しかいなかっただろう。僕に教わった生徒はかなりラッキーだったと思う。生徒たちが理解出来ないだろうと思うから教えられるのだ。
なお、「おいしいね」と「おいしいよね」と「おいしいよ」の違いだが、皆さんはおわかりになるだろうか?
もちろん日本語を母語とするならわかってるはずだ。でも、説明しろと言われると難しいと思う。
日本語教師は、日本人が無意識に意味を理解してる日本語の意味の説明も出来なくてはいけない。
「おいしいね」は同じものを食べてる相手に同意を求めている。
「おいしいよね」は、相手が「おいしい」と言った時、或いは相手がおいしそうに食べてる時に、実は自分もおいしいと感じていたことを伝えたい時に言う。
「おいしいよ」は、この料理がおいしいことを知らない人に対して、それを伝えるために言う。
何だか偉そうなことを言ったが、僕は別に自分が日本語教師として優秀だということを言いたかったわけじゃない。日本語教師は、半年か1年程度かけて、日本語学校で420時間の講義を受ければ、資格を取得できる職業だ。日本語教師を養成するために教えてる先生方も、単に日本語教師経験者というだけで、おそらく日本語教育を学問的に究めた人ではないのだろう。
僕は大学で日本語教育を専攻しており、4年間で、言語学、社会言語学、対照言語学、音声学、日本語史、日本語教育学、日本語教授法、日本語文法などを学んでおり、学習量があの日本語学校の先生たちよりはるかに上回っていたのと、教わっていた先生方が、博士号を取った優秀な教授陣だっただけだ。
僕は、大学時代、小説ばかり読んでいて、大学の講義を熱心に聞いていなかったし、成績も良くなかった。
どちらかというとダメ学生で、卒業要件は満たしたが、音声学の単位などは落としていて、卒業時に日本語教師の資格は得ていなかった。日本語教師になる数か月前に、わざわざ2か月間日本語学校に通って、420時間の講義を終了し、日本語教師になったのだ。
単に、僕は大学で一流の日本語教師に教わっていたし、一流の日本語教師のスキルの高さを知っていたし、日本語教育の基本中の基本を、大学の講義を通して理解していたというに過ぎない。
僕の能力というより、学んだ環境の違いが大きい。
だから、僕が日本語教師として優れてると自慢するのもおかしい。
言いたかったのは、そこには大きなレベルの差というものがあることだ。
別に日本語学校の先生をこき下ろすのが目的ではない。
僕から見ると、あの日本語学校の先生方は、日本語を教えるということにどれだけのスキルが必要か、どれだけ日本語を深く理解しなくてはいけないか、理解していないようだった。
理解していないから、日本語教師が出来るのだ。
僕が彼ら程度のスキルしかなかったら、とても恥ずかしくて日本語学校の教壇になんか立てない。
そして、自分のレベルを知らず、自分より高いレベルがあることを知らないと、成長しない。
僕は大学で熱心に勉強しなかったが、一流の日本語教師がどういうものかは知っていた。それを知っていたのが大きい。「日本語教師ってすごいなあ」、「日本語教育って奥が深いな」と思っていた。
レベルの違いというのは、どんな分野でもあるだろう。
比較するのもおかしいが、わかりやすい例としては、高校で毎日野球の練習に明け暮れていた高校球児と、休日に多摩川の河川敷で行われているおっさんたちの草野球ではレベルが違う。
プロのダンサーを育てるダンススクールと、趣味程度に公民館でやってるダンスクラブではレベルが違う。
別に比較しなくてもいいものだが。
これらは誰もが知っているレベルの違いだ。
大切なのは、自分が自覚していないレベルの方だ。
自分の想像が及ぶ範囲よりも、高いレベルが存在していると知った時は衝撃を受ける。
僕がコロナ騒動が始まった頃、アメリカでディープステートに反抗する人々、或いはトランプを支持する人々が作成した動画を見た時は衝撃を受けた。
Qアノンが作ったと思われる動画「The plan to save the world」、ジャネット・オスバードが作った動画「カバールの崩壊」それと、「アウト オブ シャドウ」などだ。このブログでも紹介したことがあったと思う。
(残念ながら、ジャネット・オスバードは今年初めに亡くなってしまった。)
僕はアメリカのトランプ支持者や反DSの人々は、僕ら日本人とはレベルが違うと感じたのだ。
何が違うかと言うと、DSを倒そうという意欲もそうだが、何より、彼らはDSを倒して自分達の望む世界を作れると本気で信じていることだ。現実から目を背けず、しっかりと見据えた上で希望を語っている。
自分たちはやれると、自分たちにはそれだけの力があるんだという信念と希望に満ち満ちているのを感じる。
日本人はどちらかというと、「もう世の中はどうにもならない」「やれるだけのことはやるが、世の中を変革するまでには至らないだろう」という気持ちが強いように感じる。
日本人は今一度、自分の立ち位置を確かめて、もっと希望を持って、もっと未来を信じて、もっと自分を信じて、レベルアップを図らなくてはいけないと思う。
*余談だが、僕が述べた日本語教育のレベルの違いは、あくまでコミュニカティブアプローチという同じ教授法の範囲内でのみ言えることだ。その教授法の基本的概念が尺度になる。全く別の教授法においては、簡単にどちらがレベルが高いとかどうとかいうことは言えない。
だいぶ前に作られた動画で見た人も多いと思うが、アウトオブシャドウの動画を添付しておく。
*実際、日本語学校でどんな授業が行われているか、興味のある方はこちらの動画をどうぞ。
この動画に出てくる先生の教え方はわかりやすい。
僕がいた日本語学校とは違う。
日本語の自動詞と他動詞の違いについて、外国人学生にわかりやすく説明している。
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○書き手紹介
吉井豪
1979年生まれ。群馬県高崎市出身。
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