まず初めに、あまり注目されていなさそうな時事問題について少しだけ取り上げよう。

というのも、ディープステートの崩壊を示すニュースに注目していない人が多いように思えるからだ。

世界的に見たら、ディープステートのアジェンダにここまで忠実に従う日本という国は、かなりの少数派だという点を抑えておこう。

 

昨年、フランス軍がアフリカの旧植民地から次々と撤退しているという報道がなされた。

フランス撤退に続いて、ロシアがアフリカへの影響力を増している。

昨年、ロシアはアフリカ大陸の40か国と軍事協定を結んでいる。

なお、アフリカ諸国は、ロシアの経済制裁には参加していない。

ディープステートに支配された欧米諸国は、もはやアフリカの権益をほぼ失っていると見ていいだろう。

さらに付け加えると、アフリカでは、コロナワクチンの接種率が数%にも満たない国が多い。

アフリカ全体でも見ても、20%超の接種率だ(2,021年10月時点)。朝日新聞の記事では、2回以上の接種がアフリカ全体で3%となっている。(2021年9月時点)。

日本のような超過死亡の激増という問題は、接種率の高い一部の国を除いて、ほぼないだろう。

 

中国共産党の高官が何人も死亡しているというニュースがまた流れた。大紀元の記事だったのだが、今確認したら、それを報じた記事が見つからない。

また、中国の中南海では、新型コロナにより、多くの将校が死亡したと報じられている。

僕らが抑えておかなければいけない事実は、長く中国共産党政権を牛耳ってきた主要人物が、失脚や死亡で今はもう実権を握っていないということだ。江沢民もその孫の江志成も、胡錦涛も、温家宝も、李克強もすでにいない。

中国の内部情勢については、情報が少なく、あくまで推測になるが、これまで人身売買、臓器売買、生物兵器の開発、少数民族の弾圧など、悪事の限りを尽くしてきた中国共産党員がその罪を問われて、習近平に粛清されていると思われる。

 

さて、本題に入る。

仏教で説かれているについて、僕なりの考察を述べてみたい。

以前にも空について取り上げてきたが、この概念は、現代社会を生きる上で、極めて重要と考えているので、様々な面から空について考察を深めてみたいのだ。

 

若い将棋棋士、藤井聡太の活躍ぶりを報じる記事を頻繁に目にする。

時々、テレビで将棋の対局をチラッと見たりするが、対局が終わった後、棋士どうしで初めての差し手に戻って、対局を振り返り始めると、僕みたいに将棋をろくに知らない人間から見ると、スゲーなと思って感嘆する。

と言うのも、棋士二人が、対局におけるすべて将棋の駒の差し手を正確に覚えているからだ。

僕だったら、三つ前の差し手が何だったかすら忘れてしまいそうだ。

想像するに、すべての局面におけるすべての駒の配置だけでなく、その駒がその局面でその配置にあることの役割や意味についてもすべて頭に入っているのだろう。

将棋の素人からすると、伺い知れない世界だ。

ある程度、将棋が出来る人にしてみれば当たり前のことなのだろうが。

 

学問にしても、スポーツにしても、芸術にしても、その道を究めた人にしか見えない世界というものがある。

 

野球選手の中でも、特に優秀な成績を残した選手の中には、素人には伺いしれない世界を語る人がいる。

打撃の神様、川上哲治は「野球の球が止まって見える」と言ったそうだが、これもその道を究めた人しか実感できない世界だろう。140キロ前後で自分に向ってくるボールが止まって見えるとはどういうことだろう。

 

そこまで道を究めてなくても、ある程度、習熟しただけで見えてくる世界もある。

例えば、僕は小学六年から野球を初めて高校三年まで野球をやっていた。

野球を始めた頃、不思議だったことがある。

打ったボールが外野に飛んだ時、外野手はどうしてボールの落下地点が瞬時にわかって、落下地点で落ちてくるボールを待つことが出来るのだろう・・・とか。

なぜ、ピッチャーが投げたボールがバッターの手前で、右に曲がったり、左に曲がったり、下に落ちたりするのは一瞬のことなのに、多くのバッターはそのボールの変化に対応して、ボールを打つことが出来るのだろう・・・とか。

 

この二つの疑問は、自分が野球を長くやってみてわかった。いつの時点で分かったかは覚えていないが、高校三年まで野球をやることによってわかった。

打ったボールの落下地点は、ボールがバットに当たった瞬間にわかる。ボールが空に上がる前にわかる。

落下地点がわかるというより、ボールが落下するまで落下地点に向かって、どのくらいの速度で走らなければならないかが反射的にわかる。ボールが上がった瞬間に、自分の前に落ちるか、後ろに落ちるか、ゆっくり前に走れば間に合うか、全力で走って間に合うか、間に合わないか、ゆっくり後ろに走れば間に合うか、全力で走って間に合うか、間に合わないかが一瞬にしてわかる。

おそらく、打ったボールをキャッチするという練習を何度も繰返すことによって、体が覚えてしまうのだろう。

ただ、たまに、打ったボールが予想外に延びることがあって、落下地点を間違えることがある。

その時は、落下地点を間違えた自分を恥じるよりも、自分の予想を裏切ったバッターがスゴイと思ってしまう。

そのくらい、ボールの落下地点が瞬時にわかるのは、自分の中で当たり前になる。

野球をやったことがある人なら、当たり前じゃんと思うかもしれない。

だが、僕が野球を通して感じていた世界は、野球をある程度やった人しかわからない世界だろう。

 

ピッチャーの手元から、キャッチャーのミットまで一瞬で届くボールが、自分の手前で変化しても、どうして打てるのかというのはこういうことだ。

ボールがこちらに向かってくるのは一瞬だが、長く野球をやっていると、おそらく体感時間が長くなるのだ。

ストレートだと思ってバットを振りだした場合、ボールが手前で曲がった瞬間に、「やべえ、カーブ来たあ」と心の中でつぶやきながら、腰を若干沈めて、バットを出すタイミングを少し遅らせながら、バットの軌道を変えるということを一瞬のうちに僕は行っていた。おそらく体感時間が長いのだ。

なお、カーブやフォークが来るに違いないと思っていて、速いストレートを投げられると、毎回打てなかった。

変化球の方が、ストレートより若干スピートが遅いので、対応する時間があるのだ。時間があると言っても、0.1秒はないだろう。

なお、スゴイことのように話しているが、アマチュアでも野球選手なら誰でもやっていることだ。

これも特定の人しか感じていない世界だし、その世界を感じたことのある人どうしでしか、話しても正確に伝わらない世界だ。

 

今紹介した世界というのは、感じているものにとっては非常にリアルな世界だが、頭の中にしかない世界とも言える。

あらゆるスポーツに、特定の人しか感じられない世界がある。

これは何が正しいとか、間違っているとか、どれが真実で何か嘘かということでもない。

特定の世界は、芸術にもある。音楽にも、絵画にも、文学にも、或いはある特殊の経験から感じるものにもある。

それは幻想と言ってもいい。

といっても、幻想という言葉に蔑みの意味は含まれていない。

何か素晴らしい音楽を聴いたり、素晴らしい絵画を見て感動してる人に、

「それは幻想だよ。そんな幻想に感動して、お前は馬鹿だな」と言われても、

「これの素晴らしさをわからない方が馬鹿だ」と思うだけだ。

 

ここまで何か特別な経験を指して語ってきたが、僕らが日常リアルに感じている世界は、今述べてきた世界と同類のものだ。この点が重要だ。

 

例えば、モンゴルの遊牧民は自分が飼っている何十頭の馬の顔を一頭、一頭見分けられるという。

馬の顔や表情の特徴を細かく見ているに違いない。

モンゴル人どうしの会話では、「あの馬はかわいいねえ」なんて言葉が交わされたりする。

モンゴル人は深く馬を愛している。

また、モンゴル語では、馬に関する言葉が多い。

出世魚のように、成長段階に応じて名前がある。一歳馬、二歳馬、三歳馬、四歳馬にそれぞれ名前があり、また雌馬、雄馬でそれぞれ名前がある。

そんなモンゴル人が馬を通してみている世界と、日本人が馬を通して見ている世界は当然違う。

日本人は何十頭といる馬の一頭一頭の顔の特徴など把握できないし、覚えられない。

 

何かと比較してみると、単に物理的現実世界を見ているだけだと思っても、僕らが見ているのは、単なる物理的現実世界ではないというのがわかるだろう。

僕らが見ているのは、頭の中で作り上げた幻想なのだ。

 

例えば、お金もそうだ。

僕らは1万円札を手にして、この紙幣が、日本銀行が発行したものであり、国家の信用に裏付けられていて、日本全国で流通しているということを知っていて、その価値を感じている。

100万円の札束を目にした時、おそらく、そのお金で何が出来て、どこへ行けて、何を買えるかが瞬時にイメージできる。そのお金は自分の月収何か月分かということもわかる。

そして、それらのイメージを重ねた上で、100万円を見て、それが欲しいと思う。

それは、それらのイメージが描く世界だ。

そのイメージがない原始人には見えない世界である。

 

僕は以前、ミスコンテストはやるべきではないと思っていると述べた。

その理由をもう少し詳しく述べてみよう。

僕らは実体のないものを、実体があると思い込む悪い癖がある。

 

時々こんな声を聞く。

「やっぱり、女は顔だ」とか

「かわいいは正義」とか。

 

顔が良くなきゃだめだというようなことを大真面目に語る人を何度か見たことがある。

はっきり言って、そんなわけがない。

これは当たり前すぎるくらい当たり前のことだ。

 

美人の基準とはいったい何だろう?

美人の基準はどうやって作られるのだろう?

 

例えば、僕らが見知らぬ外国に行ったとしよう。

欧米人はテレビや映画で見慣れてるのでいい例にならない。

なので、例えば全く日本人となじみのない国、アフリカに行くとしよう。

しかも、狩猟生活をやっていて、身なりも半分裸でいるような地域に行くとしよう。

現地に行ってみて、男だったら、誰かかわいいとか美しいと思える女性がすぐ見つかるだろうか?

おそらく見つからない。

「誰を見ても、女に思えない」と愚痴るかもしれない。

なぜか。

理由は簡単だ。単にそうした女性に見慣れていないだけであり、なじみがないからだ。

もし、1,2年とそこに住んで、毎日現地の女性と交流し続けたら、おそらく素敵だと思える女性が出てくるに違いない。

5年、10年と住んでいたら、かならず素敵だと思える女性に出会えるはずだ。

交流した人達がよほど性格の悪い人達でもなければ。

或いは、自分がその地域の人に対して悪い偏見を抱いていなければ。

なぜ、素敵だと思えるようになるかと言えば、その人の人柄を感じるようになるからだ。

その人に対して、愛嬌があるなとか、気が利いてるなとか、頼もしいなとか、知的だなとか、何か感じるものがある。人柄に何か好ましいものを感じるようになれば、その人の容姿も素敵だと感じるようになるのだ。

こうして、自分の中で美人の基準は生まれる。

自分の好みはこういう顔というイメージがあるのなら、過去にそういう顔をした人の人柄に何か感じるものがあったということだ。

 

逆の場合を考えてもそうだ。

アフリカで狩猟生活をしてきた人々が、日本に来て、男だったら日本の女性をかわいいと思うかと言ったら思わないだろう。女だったら、日本の男を見て、かっこいいと思うかと言ったら思わないだろう。

理由は同じで、見慣れていないからであり、なじみがないからだ。

長く交流して、人柄に触れるようになれば、素敵だと思う異性が出てくる。

 

つまり、

人は顔ではない。人は心だ。

きれいごとでも何でもない。

当たり前のことだ。

 

話が脱線しただろうか。

いやいや、脱線したわけじゃない。

要は、人の容姿も幻想だということ。

 

「いやいや、そんなはずはない。」

「美人は美人だ。」

と思う人はいるだろう。

それは実体がないものを実体があると思い込んでしまったためだ。

日本人の大多数が、美人だと認める女性は確かにいる。

それはテレビで、バラエティーや歌番組やドラマを通して、その人が多くの人が好ましいと思う人柄を感じさせたからだ。そこで美人の基準を作られてしまったのだ。

だから、テレビを使えば、日本人の美人の基準は変えられる。

 

僕がミスコンテストをやるべきではないと思うのは、「美人の基準を勝手に作るんじゃない」と言いたいからだ。

多くの人は、誰かが美人美人だと持てはやされれば、それに乗せられて、こういう顔が美人なのかと思ってしまう。美人だと思えば、本当にその人が美人に見えてくる。

人の美醜の基準などいいかげんなものだ。

 

ずいぶん長いブログになってしまった。

だが、中途半端に終われないので、続けよう。

 

大切なのは、僕らがリアルに感じているものでさえ、それは絶対的なものではないということを知ることだ。

実体はないのだ。

つまり空である。

 

ここではそこまで掘り下げていないが、仏教では、老いることも、死ぬことも、自分という存在さえも空だとしている。

空を知ると、一気に世界が拡がる。

 

自分がリアルに感じたものを絶対だと思ってしまうと、その世界から離れられなくなってしまうのだ。

コロナワクチンの有害性を認められない日本人が多いのはそのせいもあるだろう。

 

ある人にとっては、医者という存在は、仏様に見える。

女神に見える。

自分が病気で苦しんでいる時、自分を救ってくれたと思えば(実際に救ってくれたかどうかは別として)、そういうイメージは生まれるだろう。

そのイメージから抜けられない人は多いのではないだろうか?

 

コロナワクチンで多くの人が亡くなったという事実を知っても、そのイメージだけは変わらない。

ディープステートのことを知っても、メディアや政治家に対するイメージが変わらない。

そういう人は多いのではないだろうか?

そのイメージだけの狭い狭い世界だけを見て、それがすべてだとおもってしまってるのではないか。

そのイメージが描く世界とは別の世界があるということが想像もつかない。

本来であれば、コロナワクチンの有害性を知ったら、この世界がひっくり返るくらいの衝撃を受けて、この世界に対するイメージが180°変わらなくてはいけない。

 

よく歌謡曲で、文学の本で、

「真実を探している」

「真実を追い求めている」

というフレーズが出てくる。

たいていは、追い求めても、追い求めても、真実が一つも見つからないと嘆いていたりする。

「俺は真実をつかんだ」という人がいたら、逆に怪しい。

何が真実かは、その時の状況によって変わるし、あらゆるものの関係性によって変わるし、僕らの心が何を描くかによって変わる。だから、世界は広い。

 

この世界は果てしなく広い。

無限に広い世界を知って自由になろう。

 

 

参考記事

「アフリカの接種率3%」の現実 自国のワクチンだけを見ていては国益を損ねる:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)

 

新型コロナワクチン接種率が20%超(アフリカ) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース - ジェトロ (jetro.go.jp)

 

「接種会場に誰も来ない」国際支援のワクチン7割返還…アフリカ : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

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吉井豪
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