連日、これまでの一般的な社会認識を覆すようなニュースが報道されている。

今週は、アメリカのCIAが(米中央情報局)が約10年前からウクライナ情報当局と秘密の協力関係を築いてきたことが報道された。

 

だいぶ前から、世界の闇、裏側が暴露される流れがずっと続いている。

政界の不祥事から、芸能界のスキャンダルから、日本に限っても、みなさんも思い当たることはたくさんあるだろう。

ウクライナ支援が、決して平和をもたらさないことも明らかになりつつある。

 

いずれ、日本の深い深い闇も、誰もが知る時が来るはずだ。

明治維新の前に、孝明天皇と皇太子の睦仁親王が殺害されて、大室寅之助に天皇をすり替えられた。そんな深い日本の闇でさえ、誰もが知る時が来るに違いない。

 

この流れは止まらない。

秘密結社イルミナティのリーダー的存在であるロスチャイルド家の中心人物もすでに死亡した。イルミナティが世界を支配してきた時代も終わりつつあるようだ。

 

あとは、僕らが、こうした驚くべき事実をどう受け止めるかだ。

その事実をまっすぐ見つめて、問題の解決に向かうのか、そうした社会的認識が主流になるまで知らぬふりを通すのか(つまり周囲の目を気にして、多数派に迎合するだけなのか)。この二つの選択肢のうち、前者を選択する日本人がどれだけ多いかで、日本の未来は大きく変わるに違いない。

 

コロナ渦を見てきて、つくづく思ったのは、どれだけ社会の主流から外れることを恐れる日本人が多いかということ。おかげでコロナ渦は長引いたし、多くの被害者が出続けている。どうも、社会の裏側を知るだけではダメなようだ。

心構えが必要。

 

今日のブログはそれと関連することをテーマにする。

ここからが本題だ。

 

先月25日のブログで、モンテッソーリ教育について紹介した。

動画を見てもらった人はわかると思うが、子どもの家で学ぶ子ども達は、自分の興味を引いたことに夢中になっていて、他の子達と自分を比べて競いあっている様子は見えなかった。

 

一方、僕らは幼少の頃から、何かと他人と比べられ、他人と競わされる。

学問で、スポーツで、習い事で、その他行儀が良い悪いなど。

「●●ちゃんは、もうこれだけのことが出来てるのよ」

なんて親に言われて、競争意識を煽られる。

そうなると、嫉妬心も生まれるし、他人より自分は劣ると思えば、劣等感を抱く。

他人が自分より劣ると思えば、他人を蔑む気持ちも生まれる。

 

競争心があるから、人は成長するという意見もあるだろうが、僕は他人と自分を比べることは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと考えている。

自分は自分、他人は他人と考えて、競争意識を持たない方が、人は自分独自の可能性をはるかに開花させることができるはずだ。

 

なぜかと言えば、他人と自分を比べるということは、必ず基準がある。言い換えれば、何かしらのモノサシがある。

この社会には、人の優劣を測るモノサシが多数ある。

何が優れていて、何が劣っているかというモノサシがある。

このモノサシに自分を合わすことほど、自分の可能性を殺してしまうことはない。

モノサシは便宜的には必要だが、絶対化することは愚かなことだ。

 

よく考えてみるといい。

あるモノサシでは、その人の短所と見えるその人の個性が、違う側面から見ると、その人の長所だったりする。

 

具体例を出そう。

僕が高校1年生の時、学校になじめずに退学した生徒がいた。

全く授業にも身が入らず、入部したサッカー部も楽しめずにいたようだった。

僕は彼と仲が良かった。クラスで彼は僕の隣の席にいて、「学校がつまらない。退屈だ。全然やる気がしない。早く帰りたい」と愚痴ってばかりいた。

と言っても、鬱病だとか言うわけでもなく、単に映画を見に来たら、面白い映画でなかったと言うのと同じような感じで、「つまらない」と言っていた。

僕はなぜか、こういう無気力に陥ってしまった生徒と仲が良くて、クラスで仲良くなった子が3人いたのだが、3人ともクラスになじめずに退学してしまった。

僕は、彼が感じている憂鬱な気分、毎日何時間も授業を聞かなければならないことを退屈だと感じる彼の気持ちをものすごく理解できた。

僕は、学校の先生が話す説教めいた話を偽善だと思う時があったし、そのことに空しいと感じることもあったが、彼も先生に厳しく注意を受けると白けた顔していたから、似たようなことを考えていたかもしれない。

おそらく彼も中学までは、これほど学校を退屈だとは感じなかったはずだ。

高校に入って、何のために勉強するのか、学校を通うことに何の意味があるのか、わからなくなってしまったに違いない。

彼は社会のモノサシから言えば、ダメ人間ということになる。

だが、僕から見ると、学校に通うことに意味を見出せなくなってしまった彼の気持ちは、彼の長所に見えた。

少なくとも、何の疑問も持たずに、目の前に用意された道を歩いていれば間違いないと思い込んでいる生徒より、彼は余程賢いようにも見えた。

退学した後、何をしていたかは知らない。だが、どんなに学校がつまらなくても、退学を決意できた点も彼の良いところかもしれない。

本当は、彼も自分なりにとことん悩んだ末に、学校で学ぶ意味を見出した方が良かったのだろうけれど。

なお、学習することが無意味だと言っているわけではないので、誤解しないでほしい。

 

わかりずらい例かもしれないが、社会で一般的に良しとされているモノサシを絶対化すると、自分の良ささえ殺すことになりえる。

 

会社の経営に失敗した男がいたとする。

もしかしたら、それは社員を冷遇できない彼の優しさのせいかもしれない。

 

いつも、ボーとして、人との約束をすぐ忘れる人がいたとする。

もしかしたら、その人は発想力と想像力が豊かで、常に頭の中であれこれ思いを巡らせているせいかもしれない。

 

鬱病を発症して引きこもりになった人だって、それはあまりに繊細な性格のせいで、その繊細な性格を何かに生かせば、ものすごい能力を発揮する人なのかもしれない。

 

本来、人の個性は千差万別だ。

なのに、モノサシをあてはめて、競争心を煽り、優劣を決めていくと、その人の個性を殺し、いらぬ劣等感を抱かせ、いらぬ優越感に浸らせ、人を嫉妬し、敵対心を抱かせてしまう。

実際、自分の良いところを良いものと認めることができずに、それが社会のモノサシからするとダメなところだということで、自分をダメな人間だと思い込んでしまう人は多いだろう。

 

絶対的なモノサシなどないというのは、人の容姿にしてもそうだ。

だから、以前もブログで取り上げたが、僕はミスコンテストなどやるべきではないと思っている。美人の基準など人それぞれだ。唯一の基準などあるはずがない。

 

勝ち組、負け組などという言葉もいらない。

社会のモノサシを当てはめて、自分は勝ち組だとか、負け組だとか考える意味などない。

 

よく考えてほしい。

もし、モノサシに拘る人が多ければ、そのモノサシを作り出す人に操作されてしまうことを。

モノサシは作り出すことが出来る。

そして、いかようにも変更することも出来る。

どういう女性の顔がかわいくて美しいか、どんな男がカッコよくてイケメンか、人の容姿のモノサシでさえ、テレビやファッション雑誌を駆使すれば作り出せる。

まるまる太った女性をかわいいと思わせることだって出来るだろう。

簡単だ。

太った女性に、いくつもの歌番組に出演させて人の心に響く歌を歌わせ、ドラマの主役に何度も抜擢して、誰もが涙するような感動のシーンで演じさせ、雑誌のインタビュー記事に気の利いたコメントを載せれば、そのうち男たちは、そういう女性をかわいいと思い始めるだろう。

 

ディープステートは、人々のモノサシに拘る心情を利用して、僕らを操作し支配しているに違いない。

コロナ渦でも、

「マスクをしない人は社会不適合者」

「反ワクチンはIQが低い、リテラシーがない、頭が悪い」

と盛んに喧伝されて、それに洗脳された人がどれほど多かったか。

そうやって作り出されたモノサシを恐れて、本当のことが言えない人がどれだけ多かったか。

そうやって作り出されたモノサシのせいで、どれだけ人々の間に分断が起きたか。

 

最近、覚醒とか、目覚めたという言葉をよく聞く。

覚醒と言うのは、世界をディープステートが支配しているという事実を知るだけでは足りない。

この腐りきった社会のモノサシに囚われるな。

そのモノサシから離れよう。

 

人に対して競争心を抱かなくていい。

もちろん、会社には役職は必要だろうし、スポーツで言うなら、野球をする時に、野球部員が百人いるなら、百人全員を試合に出せというのも無理な話だ。

何らかの基準で、人に役割をあてがうのはいい。

だが、それで自分の価値が決まると思わないことだ。

 

自分に夢や目標があるなら、それにどれだけ近づいているかだけを考えればいい。

人がどうであるかは関係ない。

 

人より抜きんでることが生きがいだという人もいるだろう。

人を蹴落とすことが楽しいという人もいるだろう。

だが、どうだろう。

自分以外の人が喜びに溢れ、人が愛に恵まれ、人がいつも笑顔で楽しく生きること、それを願い、そのために自分が何かやれることをやっていく方が幸せではないだろうか。

それを仏教用語で「喜」と言う。

 

「喜」と関連して、仏教用語の四無量心について、特に解説書などを参照せずに、僕なりに簡単に解説してみる。

四無量心とは、一言で言うと、他の生命に対して無限に愛を向ける心。

無量の心。

慈悲喜捨の4つを言う。

 

慈は慈しむ心、友情心を抱く。

悲は哀れむ心、抜苦与楽。苦しんでいる人に対して、その苦しみから救ってあげたいと思う心。

喜は他の生命の幸せを喜ぶ心。

捨は、あらゆる生命を区別せず平等に見る心。

 

*日本で上座部仏教を広めている、スリランカの僧侶スマナサーラ長老が「喜」について解説した動画を添付する。

 

 

*この動画は、尾崎豊が、暴走族だった友人が、一人の父親になったことを喜び、その友人の幸せを願う気持ちを歌った歌。「喜」の例として最適と思ったので紹介する。

ただ、この動画では歌の2番が省略されているのが残念だ。

 


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○書き手紹介 

吉井豪
1979年生まれ。群馬県高崎市出身。
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自分の目にあったメガネをかけるために知るべきこと

 

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