さて、今回は家畜の殺処分や虐待、ペットの殺処分について考えてみたいと思う。

つまり、動物の命、動物の生きる権利に関する問題だ。

 

つい最近も、鳥インフルのために、養鶏場の鶏が大量に殺処分されたとのニュースが流れた。

鳥インフル 1万4千羽を殺処分・埋却・消毒 2農場で防疫措置完了 鹿児島・南さつま市|47NEWS(よんななニュース)

 

感染症による殺処分に留まらず、家畜のいる養豚場や養鶏場などの劣悪な環境と、虐待や残酷な屠殺の仕方、さらにはペットの殺処分まで、この日本では動物の命が全く尊重されていない。ペットの殺処分に関しては、日本は世界で最も殺処分されるペットが多いと言われる。

 

家畜の殺処分や虐待については、YouTubeにもいくつか動画が投稿されているが、あまりに残酷で見るに堪えない。一つだけ、以下に動画を紹介しておく。

残酷なので、苦手な方は注意。

 

肉食をするにしても、動物の命を尊重するということは大切なことだ。

イスラム教では、肉食はするが、屠殺をする際は、動物の苦痛を最小限にするように心がけるそうだ。また動物を怯えさせないよう、屠殺に使う刃物は動物の前で研ぐことは禁止されている。動物の前で他の動物を殺すことも同じ理由で禁じられている。

モンゴルの遊牧民も、羊などを屠殺する際は、頸動脈を刃物で切り裂くことで、一瞬で殺すことで、苦しませないようにしているようだ。モンゴルでは土地がやせていて作物が育ちにくし、伝統的にも主食が肉中心のため、肉食は必須。

 

もちろん屠殺方法の是非ではなく、生命尊重という観点から論じてみたい。

 

以前、仏教徒(上座部仏教)が9割を占めるタイでは、野良猫や野良犬でさえ、殺処分は行われていないことを紹介した。(なお、タイ人は、肉は食べている。)

僕もタイに行って驚いたのだが、タイにいる野良猫や野良犬は人間に対して、全く警戒心を持っていないようだった。まるで、人間という生き物は自分達、動物に対して、決して危害を加えないと、猫も犬も知っているかのようだ。よほど、タイ人は動物を大切にしているに違いない。

この動画を見てほしい。

前を歩いてくる見知らぬ人に対して、猫は全く警戒心も恐怖も抱いていない。

 

タイと同じく上座部仏教であるスリランカ出身のスマナサーラ長老の本を読むと、動物の命が尊重される理由がよくわかる。なお、スマナサーラ長老は、おそらく日本でもっとも上座部仏教を日本人に紹介している僧侶だ。

スマナサーラ長老は、すべての生命は平等であると説いている。

人間であろうが、動物であろうが、虫であろうが、生命という次元では平等であると。

 

生命は平等であるという観点からだろう。スマナサーラ長老は、動物も虫も、あらゆる生物に対して対等に向き合い、非常に強い関心を持って観察している様子がうかがえる。

自分たちと同じ命だという認識のもとで、動物や虫を見ているのだ

スマナサーラ長老の本である「初めての上座部仏教」から、動物に関して述べている箇所をいくつか引用してみよう。

 

平等とはどういうことでしょうか。ゴキブリと私は平等でしょうか。ヘビと私は平等でしょうかというような疑問が起こるかもしれませんね。でも私は「平等ですよ」と言っているのです。

ヘビと人間とでは、その体を見ると平等ではないかもしれません。でも、生命として見れば同じなのです。生命として見ていると、世の中がおもしろくて、生きることに何も苦しみがなくなってしまいます。
                     
(中略)

それは猫の場合にもよくあることで、猫の兄弟というのは相手のことをとても気にするのです。捨て猫にしても、兄弟の中で一番力の強い猫は、一生懸命あちこちに行ってえさを探し、力の弱い兄弟にも必ずあげます。自分ひとりでは決して食べません。
そういうことを見ていると、生命として何か感じるはずです。みんな同じであるということが分かります。すると、ただの猫ではないか、ただのすずめではないか、ただのいやなゴキブリではないかということにはなりません。それらの姿を見ていると、楽しくなってくるのです。

 

(中略)

皆さんはミミズを見ると、「ミミズは人間とは違う存在だ。魂も何もないのだから、つぶしてやろう」と思ったりするかもしれません。ゴキブリやハエなどにしても、ピシャンと何かでたたいちゃうでしょう。私はそのとき何を感じるかと言えば、自分がペチャンコにされたように感じるのです。自分が殺されたような感じですね。それくらいに感じるのです。「ハエだからいいや」とは全然思いません。体に止まられると迷惑なことは迷惑なのですが、ハエの立場に投影して見ると、かわいいと思えるのです。ハエの立場から見れば、「頭の上は追い払われるんだったら、肩に止まってやるぞ」と思っているかもしれません。

 ですから、お互いに平等なレベルでかかわり合い、すべての生命に対してほんとうの愛情を広げていってください。それが慈悲の生き方なのですから、それぐらいに思えるようになるまで慈悲の実践をしなくてはいけないのです。

(引用:初めての上座部仏教 アルボムッレ・スマナサーラ著)

 

これらの記述を見て思うのは、興味を持つ、関心を持つ、理解しようとすることがいかに大切かということだ。

僕らは、わからないことをわかった気になってすましているようなところがないだろうか?

或いは知らないことを知った気になってすましてしまうようなところがないだろうか?

 

今、芸能界における性加害のことが問題になっているけれども、性被害を訴える人に対して、「金が目当てなんだろう」とか「嘘をついているんじゃないか」などと言って、相手の立場に寄り添ってみれば、違うものが見えてくるはずなのに、それをせずにわかった気になろうとする。

こう考えていくと、愛の反対は無関心と言われる意味がわかるような気がする。

 

同じように、動物の痛み、苦しみに対しても、それがどれほどのものか、自分に引き付けて考えずに、たいしたことはないだろうとすましてしまってはいないだろうか?

狭い養鶏場や養豚場に閉じ込めれた鶏や豚が、何を思い、何を感じているだろうかと考えてみなくてはいけない。自分が同じ目にあったらどうだろうかと。

仏教の初期経典にも、生きとし生けるものは幸せを求めているのだから、自分の身に引きつけて、殺してはならないと説かれている。

 

なお、歴史的にも仏教が浸透している日本で、動物の生命が尊重されていないのはどういうわけだろう。仏教の教えが形骸化しているのかもしれないし、仏教用語で畜生という、動物を蔑む言葉が使われている点からしても、動物の生命を尊重する意識が低いのかもしれない。

もはや、人間と動物の間で明確な一線を引くキリスト教文化圏の西洋よりも、日本は動物の命を尊重していないように見える。

 

だいぶ長くなってきたが、動物と同じ次元に立って見るという点で、紹介したい人がいる。

インドでヨガの修行を本格的に修め、ヨガ行者として尊敬を集めている成瀬雅春だ。

 

成瀬雅春は、ヨガ瞑想をする中で、人間の視点から離れ、生命という視点でものを見ることが出来るという。それは意識を拡大することによることだと。

その点について述べているところを、成瀬雅春の著作「時間と空間、物質を超える生き方」から、動物について語っている部分をいくつか引用してみよう。

語り口から、成瀬雅春の愛情が感じられる。

 

私が五歳ごろに、豚肉を食べられなくなったときには、気づいてなかったのですが、その時点で「人間の視点」から離れた思考形態を取っていたのです。つまり、豚肉が嫌い、というのではなくて、豚肉となった豚が「命を全うできなかっただろう」と考えたときに食べられなくなったのです。

たとえば、食用牛の意識レベルに自分の意識を拡大すると、生れてから食肉処理場で命を落とすまでの生涯を疑似体験できます、その食用牛の意識に拡大できるようになったときに、牛肉を食べることはできなくなります。その牛の生涯がどれほど辛く、悲しいものなのかを、自分自身の如く感じられるのです。

 

成瀬雅春は、全面的に肉食自体をやめろと言っているわけではない。牛や豚が食べられるのは仕方がないが、せめて食べられるまでは、生れてきたことに喜びを感じられるような環境で、有意義な時間を過ごさせるべきだという。(と言っても、食肉をやめさせるのは現実的ではないため、妥協的に食肉を認めているだけではないかと思われる。)

その点で、生れた時から狭いゲージに閉じ込められ、ゲージから出られる時は殺される。そんな状況に、家畜を追い込むことを痛烈に批判している。

多くの肉を得るために、遺伝子組み換え技術で、6本足の鶏を生み出すことに関しては、成瀬雅春は何も述べていないが、知れば、おそらくもっと痛烈に批判するに違いない。

食用牛について述べている箇所を引用する。

 

もし、あなたが、生れた瞬間から「終身刑」を宣告され、刑務所の中で生涯を終えるとしたら、幸せですか?幸せかどうか以前に、生まれたきたことに対して、何一つプラス要素を感じられないでしょう。仕事をすることも、遊ぶことも、動き回ることも、勉強することも許されず、ただただ死を待つだけなのです。そんな境遇の人間は、現在ほとんどいません。しかし、「牛」というだけで、その境遇を課せられてしまうのです。

ヨーガを実践していて、ヒマラヤ聖者と同じ思考になると、「食用牛」という立場が残酷で、動物虐待で、非人間的だと思えるようになるのです。これは、一般的な考え方には反するでしょう。だから、ヒマラヤ聖者は稀有な存在なのです。ヨーガ行者の周囲には、あらゆる動物が集います。それは、トラやライオンやコブラでも、愛情を持って接して、敵だと思わないからです。

人食いザメ、人食い熊、人食い虎という言葉は、実にその動物に対して失礼な言葉です。サメでも熊でも虎でも、基本的に人間を食の対象になどしていません。人に襲われるから自己防衛手段として嚙みつくのです。

むしろ、人間がサメ喰い人間、熊喰い人間、牛喰い人間、豚喰い人間なのです。動物の中で最も危険な動物が人間なのです。他の動物はそれと比べたら、心優しい動物ばかりです。

 

(中略)

私が「動物虐待」だと思える事例を挙げてみます。

前述した牛や豚や鶏の、放牧でない飼い方でゲージに入れたまま育てられるのは、動物虐待だと思います。魚の身を削いで頭と尾を残して骨だけにして水槽で泳がせたり、皿の上でピクピクと動くのを見せるのは、絶対に許せない動物虐待です。

その魚が新鮮だということを見せるためでしょうが、自分がそのような目に遭ったらどうでしょうか?手足を削がれてギリギリまで生かされて、その後食べられてしまうのです。

(引用:時間と空間、物質を超える生き方 成瀬雅春著)

 

実は、僕は動物虐待をテーマに論じることには、多少のためらいがあった。

僕自身がそれについて語るほど、すべての生命を尊重している自信がなかったからだ。

つまり、自分には語る資格はないんじゃないかと。

僕はベジタリアンというわけでもない。以前より肉は食べなくなったが。(いつからか自分で料理する時は、ほぼ肉を加えなくなった。)

何しろ、今日本で食卓に並ぶ肉は、放牧でなく、ゲージで育てられた食用の牛や豚のものがほとんどだろう。つまり、肉を食べる日本人は、誰もが動物虐待に加担してしまっている。

 

それでも、食用に限らず、あらゆる場面で動物虐待が行われている現在、誰もが考えていかなくてはいけない問題だ。大いに論じていくべきかと思う。

スマナサーラ長老と成瀬雅春の話からわかるように、大切なのは、すべての生き物に対して関心を持つことだ。その生き物を軽んじずに同じ生物だという視点で向き合うこと。

犬や猫などのペットを飼った人はわかると思うが、動物にも喜怒哀楽がある。

喜び、悲しみ、怒り、時には甘え、身の危険を察知すると恐怖する。

(ただ、喜怒哀楽はあっても、笑いはないかもしれない。人間のように笑っている動物は見たことがない・・。)

名まえを呼べば答えてくれる。一緒にいれば心が通じているのもわかる。

すべての生き物が幸せであることを願おう。

 

*お経をあげている最中に猫がからみついてきても、猫を自由にさせているタイの僧侶↓

 

 

YouTubeを見ると、ペットの動画は人気がある。

 

普段、あまり関心を持たない動物でも、こうした動画を見てみると、何か感じるものがある。

最近、カラスを飼っている人の動画を見たのだが、カラスって人間になつくし、賢いんだね。

 

 

 

*前々回のブログで進撃の巨人をテーマに取り上げると述べた。

このアニメは、目的達成のためには手段を選ばないとでもいうように、大量虐殺を行うシーンが描かれている。しかも、それが肯定的に描かれているとしか思えない。その点を批判するつもりでいたのだが、あのアニメはかなり奥が深い。

過去、現在、未来が同時に存在するような次元も描かれている。

論じるなら、そうしたストーリーの背後もしっかり把握しておくべきかもしれない。

時間があれば、アニメを見るなり、コミックを読むなりしてから、今一度「進撃の巨人」を考察してみようと思う。

 

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吉井豪
1979年生まれ。群馬県高崎市出身。
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