今回のテーマは宗教です。
少し長くなるかもしれない。
仏教学者である佐々木閑によれば、最近アメリカは、仏教と言えば上座部仏教に人気があり、上座部流の瞑想などを行っている人がいるらしい。
非情に面白い傾向だ。
アメリカでは1920年代は日本の禅に人気があったようだ。
おそらく、仏教学者である鈴木大拙がアメリカに日本の禅を紹介したためだろう。
アップルの創業者であるスティーブジョブスは、禅を学んでいたそうだから、禅は今でも多少はアメリカで人気があるんじゃないだろうか。
その後、1960年代だと思うが、その頃のアメリカはチベット仏教(チベット密教)に人気があったらしい。
1960年代と言えば、アメリカではヒッピー文化が盛んだったころだ。おそらく、人間の潜在的な可能性を解放するような超能力的な力を、チベット仏教に求めていたのではないかと僕は推測している。
なお、チベット仏教は、あのアドルフ・ヒットラーも注目していて、ヒットラーはチベット仏教に秘められた神秘な力を手にしたかったのかもしれない。
そして、今、チベット密教とは対極にあるようにも思える上座部仏教に人気があるというのは実に面白い。
現代のアメリカ人の思想傾向が伺われる。
上座部仏教の教義は、初期経典を元にしていて、お釈迦様が実際に語った教えを忠実に守っていることを自負しているようだ。
その教えは極めて合理的であり、科学とも矛盾せず、無宗教の人でも受け入れやすく、わかりやすい。
すべては苦であるという仏教の考えは受け入れやすい。
あらゆるものは無常ですべては移り変わっていくという無常観も受け入れやすい。
固有の実態などはなく、あらゆるものは関係で成り立っているという縁起観も受け入れやすい。
論理的に考えても、科学的に考えても、抵抗なく受け入れられるのだ。
あらゆる生命は平等であり尊い、という教えは、科学的でも合理的でもないが、心情的には受け入れやすいだろう。
おそらく、アメリカ人の間で、信じれば救われるとか、祈りは必ず叶うとかいう言葉を信じろと言われても、素直に信じられない人が多くなってるのかもしれない。
上座部は、頼れるのは自分自身だけだという考えが非常に強い。
超自然的な力に頼ったり、信仰すれば死後に浄土に行けるとか、祈れば現世利益があるなどということも言わない。
だから、
いかがわしい宗教に騙されたくないという人が、上座部仏教に惹かれるのかもしれない。
今後、上座部仏教で説かれた教えをこのブログで取り上げてみようかなとも考えている。
というのも、初期経典を元にしているため、お釈迦様のオリジナルの教えに近いという点で魅力があるし、仏教の基本概念を理解するのに非常に役に立つ。(一方で、大乗仏教において、お釈迦様の教えに回帰したという見方も成り立つとも考えている。)
それに大乗経典は、仏教の基本概念が理解された前提で書かれているので、般若心経や法華経をいきなり読んでも理解が浅くなるのだ。
まずは仏教の基本概念を抑えておくのは大切なことだ。
だが、上座部仏教を紹介する前に、僕の仏教に対する考えを簡単に述べておく。
僕は日本に伝わった大乗仏教は、上座部仏教の次の段階に来るものであり、大乗仏教の方が優れていると考えている。
その理由をすべて述べることは出来ないが、一番の理由をここで述べておこう。
仏教の基本的な教えは同じである。
すべては常に変化し移り変わっていくものである。
存在すると思っているものは、縁起で成り立っていて、固有の実体はない。
つまり、空である。
僕らはお金には絶対の価値があると思い込んでいる。
ノーベル平和賞は絶対の価値があると思っている。
学歴や、社会的地位には絶対の価値があると思っている。
この世には、勝ち組と負け組がいると思っていて、その区別は確かに存在していると思っている。
この世には美しい人と、美しくない人がいると思っている。
そんなものは幻想だと仏教は教えてくれている。
あらゆるものが幻想だと。
あなたが勝手にそうした意味付けを行って、それに実体があると思い込んでいるだけだと。
あなた自身の自我も幻想だと。
そんな幻想に囚われて自分を苦しめるのはやめなさいと。
ここまでは上座部も大乗も同じである。
こうした基本概念に基づいて、上座部仏教の僧侶はこんなことを言う。
「人はあらゆる欲を持ち、あらゆる望みを叶えようとする。それは煩悩であり、苦しみの元である。煩悩から離れたところが悟りの境地であり、そこに安楽がある。すべては幻であり人生に意味はない。生きることは苦であり、空しい。」
「人生はゲームに過ぎない」とか、「人生は暇つぶしだ」などと言われるのも、仏教の空の概念から来るものだろう。
僕はこうした言葉を聞くと、それは違うと思ってしまうのだ。
なお、生は空しいと捉えるのは、西洋における無神論者の言説に非常によく似ている。
例えば、フランスの小説家カミュである。
カミュの代表作「異邦人」の主人公のムルソーは、人に意見や考えを問われると、何かしら答えはするが、いつもその答えにつけ足してこう言う。
「だが、それはどっちでもいいことだ」と。
恋人に「私のこと愛してる?」
そう聞かれた時も、ムルソーはこんな答え方をする。
「愛していない。だが、それはどっちでもいいことだ」と。
ムルソーにとって、人生はなんの意味もないものなのだ。
物事がどう転がろうと、どちらでもいいと考えている。
どちらにしても、何の意味もないのだからと。
カミュの思想が詳細に語られているのは、「シーシュポスの神話」である。
カミュの思想は、あらゆる意味を自分の中からそぎ落とした境地に、何かしら意味を与えていて、それは仏教の悟りの境地に近いものを思わせる。
「シーシュポスの神話」では、登場人物のシーシュポスが神を欺くという重い罪を犯して、永遠に大きな岩を山頂に押し上げ続けるという罰を受ける。
シーシュポスは、重く大きな岩を全身に力を込めて、押し上げて山頂に持っていくのだが、山頂に押し上げると、岩は自らの重みで山の麓まで転げ落ちていくのだ。
それを、シーシュポスは、また麓から山頂に押し上げていくということを永遠に續ける。
何の甲斐もなく、何の意味もなく、何の望みもなく、何の未来の展望もない作業だ。
それはシーシュポス自身がわかっていて、自分のやっていることに、何の望みも何の意味も感じなくなったシーシュポスに、新たな境地が開けていく様が描かれる。
それはおそらく煩悩を消し去った悟りの境地につながるように、僕には見えるのだ。
僕はこの本を読んでいた大学時代の時のことを覚えている。
カミュの思想は非常に説得力があるもので、納得がいくような気がした。
だが、僕がその時、本から目を話して、パッと思い浮かんだのは、当時読んでいた「あしたのジョー」の復刻版のことだった。
僕のこの漫画に、あらゆる困難にめげずにボクサーとして完全燃焼しようとするジョーの姿を見て、胸を熱くしていたのだ。全巻買って繰返し読んでいた。
僕が思ったのは、
「人生に意味がなく空しいならば、僕があしたのジョーを読んで深く感動したことは、いったい何なんだ・・・」ということだった。
あしたのジョーだけじゃなかった。
僕は当時、尾崎豊の歌に胸をゆすぶられることがたびたびあったし、久石譲の曲に、何か神秘的なものを感じることがあったし、ドストエフスキーやゲーテやトルストイやそうした文学作品に感化されることも多かった。
僕が受ける感動は、胸が高鳴る瞬間は、いったい何なんだ。
空しいものなのか、そんなはずはない。
カミュの思想は非常に面白かったが、何か違うと感じた。
この世のあらゆるものに実体はない。
だが、その実体のない空なるもの、形のないもの、僕らが意味付けしたものに過ぎないもの、概念化したに過ぎないもの。そこに意味があるんじゃないか。
精神というよりは、もっと意味合いが広い何か、それがこの世の本質なんじゃないのか。
僕はそんなふうに考えている。
上座部仏教は、空の概念から、人生は空しいと考える。
大乗仏教は、空の概念から、あらゆる可能性の広がりを感じ、この世界は無限であると感じているのではないだろうか。
僕はそう考えている。
大乗仏教の経典が描く世界は、「ここまで人間は想像を及ばせることが出来るのか」と思えるほどの壮大な世界なのだ。
*このブログで、「進撃の巨人」を見た人はどれくらいいるだろう。
僕はこのアニメが大好きなのだが、ファイナルシーズンを見た時は仰天した。
こんなストーリー展開になるとは。
実は、僕はコミックを最初の数冊しか読んでいなかったので、アニメでしかストーリーをほとんど知らなかったのだ。
近々、「進撃の巨人」を辛辣に批判する予定。
これまで深い感動を与えてくれたこのアニメを。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240205/10/goyoshii225/24/89/j/o0640048015397737067.jpg?caw=800)
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○書き手紹介
吉井豪
1979年生まれ。群馬県高崎市出身。
東京在住
小説家
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