購書偶記 -7ページ目

2007年11月の購書録

ご無沙汰しております。
もう今年もあとわずかですが、とりあえず先月購入した書籍のリストです。


  • 経義考(上下2冊 清・朱彜尊 中文出版社 1978年 影印本)
  • 張家山漢墓竹簡[二四七號墓](釈文修訂本)(張家山二四七號漢墓竹簡整理小組 文物出版社 2006年 横組繁体)
  • 武威漢代医簡注解(張延昌主編 中医古籍出版社 2006年 横組簡体)
  • 切韻考(附音学論著三種)清・陳澧撰 羅偉豪点校 広東高等教育出版社 2004年 横組簡体)
  • 野菜博録(明・鮑山編 王承略点校・解説 山東画報出版社 2007年 横組簡体)
  • 類編長安志(長安史跡叢刊)(元・駱天驤撰 黄永年點校 三秦出版社 2006年 縦組繁体)
  • 華陽國志校補図注(晋・常璩著 任乃強校注 上海古籍出版社 1987年初版 2007年第3次印刷 横組繁体)
  • 華陽國志訳注(晋・常璩原著 汪啓明等訳注・校訂 四川大学出版社 2007年 横組簡体)
  • 錢録 外15種(四庫藝術叢書)(上海古籍出版社 1991年 四庫全書影印本)
  • 游城南記 外5種(山川風情叢書)(上海古籍出版社 1993年 四庫全書影印本)
  • 飲膳正要(元・忽思慧撰 劉玉書點校 人民衛生出版社 1986年1版1989年2次印刷 縦組繁体)
  • 切韻考(附外編)(清・陳澧 北京市中国書店 1984年 影印本)
  • 水經注校證(北魏・酈道元著 陳橋驛校證 中華書局 2007年 縦組繁体)
  • 瀛寰志略校注(清・徐繼畬著 宋大川校注 文物出版社 2007年 縦組繁体)
  • 唐冩本王仁昫刊謬補缺切韻(唐・王仁昫撰 廣文書局 1964年初版 1986再版 影印本)

以前に通販で注文して入荷待ちだった本が一度に届いて大量に購入した月になりました。

レンガ工場の採土のために後漢の楊修の墓が危機

陜西磚廠取土威脅楊修墓(圖)  10/26/2007
(繁体中国語)


○場所
・陝西省勉県周家山鎮柳營村黄泥崗上の突起した黄土
・周辺を周家山レンガ工場が土を掘り出して、楊修の墓の20m以内に迫ってきており、墓の安全が脅かされている。


 陝西省勉県は、漢中市の西に位置する。あまり拡大できなかったがグーグルマップ(簡体中国語)で勉県の位置を示すと


http://ditu.google.cn/?ie=UTF8&ll=33.122888,106.599655&spn=1.347888,3.702393&z=8&om=1


手元の地図では周家山鎮は勉県のすぐ東にある。
 楊修は後漢末の人で、曹操の部下であったが、曹操に忌まれ殺された人物。『三国志』巻19 陳思王(曹植)伝の裴松之注に引用される『典略』によれば、楊修は建安24年(219)の秋に、曹操の言葉を漏らし諸侯(曹植)と結託したという理由で殺され、楊修の死後100余日で曹操も亡くなったと見える。武帝紀によれば曹操の死は建安25年正月庚子(23日)なので逆算すると、楊修が殺されたのは建安24年の9月末と仮定しても(建安24年は閏十月があるので)曹操が死ぬまで140日以上経過しているが、果たしてこれは100余日と言ってよいのだろうか?ありえなくもない気がするが、もうちょっと別の見方もできそう。『典略』の原文をよくみると


至二十四年秋、公以修前後漏泄言教・交關諸侯、乃収殺之。……修死後百餘日而太祖薨。


とあって、楊修は(建安)24年秋に「収殺」されている。「収殺」の「収」は捕らえるの意味で、「殺」は文字通り殺すの意味。「収」と「殺」が時間を開けて行われた可能性もある。例えば、建安24年秋に楊修が捕らえられて、冬に入った閏十月頃に殺されたと考えると「24年秋に収殺」されたことと「曹操が楊修の死後100余日で死んだ」ことの2つの『典略』の記述が無理なく解釈できそうな気がする。また、『三国志』陳思王(曹植)伝の盧弼の『集解』によると、『太平寰宇記』巻3に洛陽芒山に楊修冢があると記載されているとのこと。(『太平寰宇記』未所蔵のため原本での確認はできませんでした。)ここで再び魏武帝紀で確認すると、建安24年の夏5月に曹操は「軍を引きて長安に還り」冬10月に「軍 洛陽に還る」とあって、建安24年秋の段階ではまだ曹操は長安にいたことから、楊修が冬になってから洛陽で殺されたと見た方が、楊修の塚墓が長安ではなく洛陽にあることがすっきり解釈できる気がする。もっとも、楊修の塚墓については後人が楊修の死んだ場所に関係なく建てた可能性もあるし、『典略』の記述も正確である保証は無いので、以上の私の推測はこういう見方もできるかも程度の物にすぎませんが。
 ここで一つ疑問がおきるのだが洛陽に楊修の塚墓があったのなら、この漢中市(の近くの勉県)の墓はなんなのかということである。そもそも漢中市(勉県)と楊修の死がどのような関係があるのだろうか?ここで思い浮かぶのが『三国演義』である。建安24年正月に関中を守っていた魏の武将の夏侯淵が蜀の軍に敗死したため、3月に曹操自ら軍勢を率いて長安から斜谷関を越えて関中に攻め入り、陽兵関で蜀軍と対峙したが、攻め落とすことができずに建安24年5月に長安に退却した。(この一連の流れは『三国演義』ではなく『三国志』魏書武帝紀によった)この陽兵関が盧弼『三国志集解』によると、『清一統志』を引用して陝西漢中府沔縣の西北にあったとのこと。沔縣は即ち現在の勉県である。曹操が関中から退却するに当たって、曹操と楊修の間に有名な「鶏肋」のエピソードが残っている。鷄肋については以前に鷄肋編 という書物について紹介したときにもちょっと触れたことがあるが、『後漢書』楊修伝や『三国志』武帝紀注の『九州春秋』によれば、曹操が退却しようと思って「鶏肋」という命令を出したが、他の部下がどういう意味かわからないなか、楊修のみが曹操の真意を悟って帰り支度を始めたというものである。『三国演義』第72回に描写によると、曹操が退却しようか迷っている時に、たまたま鶏肉のスープに入っていた「鶏肋」を見て、「鶏肋、鶏肋」と呟いていたところ、夏侯惇がそれを聞いて軍に伝令した。楊修が伝令を聞いて帰り支度を始めたことから、夏侯惇がその理由を楊修に問いただし、最終的に全軍が帰り支度をはじめた。それを知った曹操が「楊修が軍心を乱した」と怒って楊修を斬り殺したことになっている。『後漢書』や『三国志』では、「鶏肋」のエピソードで楊修が殺されたことにはなっていないので、これは恐らく『三国演義』のフィクションでないかと思う。そうすると、今回の記事の勉県の楊修の墓というのは『三国演義』のフィクションを受けてそう言われたものではないかという疑問が生じる。記事によると、陜西省三國文化研究中心主任で勉縣博物館館長の郭清華氏の主張を紹介して


・以前にこの場所から出土した文物
・現地に「柳(劉)営」「曹営」という地名が残っている


という点から、当時楊修が殺されて黄泥崗に葬られた可能性が極めて高いとする。黄泥崗で出土した文物というのがどのような物かはわからないが、記事中に墓誌が無いと言っているので、恐らく人物を特定できる文字資料等が出土したのではないのじゃないかと思う。とすれば、やはり勉県の楊修の墓というのは『三国演義』のフィクションに基づいた民間伝承のようなものじゃないのだろうか?


ちなみに、検索したところ楊修の本籍地の陝西省華陰市にも楊修墓があるらしい。


シルクロード遺跡
(日本語)

秦始皇帝の阿房宮は項羽が放火したときには未完成

秦始皇阿房宮可能只是傳說 項羽放火時並未建成_中國網  2007-10-22
(繁体中国語)


阿房宮考古隊の責任者で、中國社會科學院考古研究所研究員の李毓芳が先日湖南省龍山縣で行われた秦文化國際學術研討會での報告をもとに阿房宮が未完成だったというニュースが入っているようです。ただし、検索してみるとほぼ同じ内容のニュースがかなり前にすでに報じられている模様。


項羽は阿房宮を焼き払っていない、前殿の発掘調査で明らかに←中国通信社  2003.12.01~07
(日本語)


古建探索:前殿未建成 阿房宮是否存在存疑?  2005年02月01日(原題:簡体字)
(簡体中国語)


掲開阿房宮遭“焚”之謎  2005年04月21日(原題:簡体字)
(簡体中国語)


 私自身は阿房宮の発掘について今回初めて知ったので、以上のニュースサイトより簡単にまとめてみる。
 阿房宮についての基本的な日本語の情報は、上の中国通信社のページやWikipediaあたりを参照にするといいと思う。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%88%BF%E5%AE%AE

(日本語)


○阿房宮の位置
・北…西安市三橋鎮、東…灃惠支渠、南…和平村、西…長安区紀陽寨。
・阿房宮前殿基址、上天台基址、武警学院内夯土基址(俗称“磁石門”)、紀陽寨夯土建筑基址(俗称“烽火台”)等の重要遺跡が含まれる。(夯土とは突き固められた土のこと)
(以上、上記2005年2月の記事による)


 とりあえずグーグルマップ(簡体中国語)で示すと


http://ditu.google.cn/?ie=UTF8&ll=34.259487,108.852539&spn=0.04157,0.1157&z=13&om=1


のとおり、西安市の西郊に位置する。2007年10月の記事によると、阿房宮に含まれるとされた遺跡群のうち、真に阿房宮に関連する遺跡は阿房宮前殿のみで、他の上天台・磁石門、烽火台等の遺跡は秦漢の上林苑に属する遺跡で阿房宮とは無関係であったという見方が示されている。


○阿房宮前殿について
・1961年に巨大な土を突き固めた台基が阿房宮前殿の遺跡であると公表されるまで、地元の住民は「郿鄔嶺」と呼んでいた。
・東西長さ1270m、南北長さ426m、現存の最大高度12m。東端と西端は民家に覆われている。
・前殿の東・西・北の三面には壁(塀?)があり、南面には無い。
・北の壁は中間が幅広く、両端が狭くなっており、最も幅広い部分で15m、狭いところでも6m余りの幅があった。
・この3面の壁に囲まれた区域内に、秦代の堆積層や宮殿建築の遺跡も無かったし、火災で焼けた痕跡も無かった。


 晩唐の有名な詩人である杜牧は阿房宮を題材にした「阿房宮賦」という作品を作り、阿房宮の壮麗さを詠ったが、もちろん唐代に阿房宮がそのまま残っている筈が無く、フィクションなのであろう。李毓芳氏によると、実際には以上のような状況から、阿房宮で完成したのは前殿の台基だけで、その他の宮殿なども竣工されていなかったと見る。また、秦滅亡のさいに項羽の放火によって阿房宮が3ヶ月に渡って燃え続けたといわれてきたが、そのような事実も無かったとのこと。(中国通信社の記事の孫福喜氏によると秦の都の咸陽宮の遺跡からは大面積の焦土が発見されているとのこと)
 『史記』秦始皇本紀の記述によれば、始皇帝35年に咸陽の都が小さすぎるということから、新たな王宮を作ろうとして、まず前殿を作ったという記事が見える。その後始皇帝37年に始皇帝は亡くなり、翌年の二世皇帝胡亥元年の四月に、


二世還至咸陽、曰、先帝爲咸陽朝廷小、故營阿房宮、爲室堂未就、……復作阿房宮。


と見え、未完成だった阿房宮の建設を再開したことが伺える。翌二世皇帝二年には、丞相の李斯等が一時的に阿房宮の建設を中止するように諫言しているが聞き入れられなかった。そして翌年に二世皇帝胡亥が殺され、子嬰が秦王に立つがわずか46日で劉邦の軍に降伏して秦は滅亡する。以上の『史記』の記述を追えば阿房宮が未完成であったことは史料上から読み取れると思う。(そもそも新しい王宮として建設していたものなので、阿房宮が完成していたら、咸陽宮から阿房宮に都を移したという記事がるはずだが、そういう記述が見当たらないことからも、阿房宮が未完成のまま秦が滅亡したことが伺える。)
 今回の李毓芳氏の報告では、単に阿房宮が未完成であるばかりでなく、僅かに前殿の基礎の部分が完成されたのみとする。また、上の2003年や2005年の記事では阿房宮の遺跡として前殿以外に上天台等の遺跡が挙げられているが、今回の李毓芳氏の報告では前殿以外の遺跡は上林苑に属するものとして、阿房宮に属する遺跡は前殿だけだとする。こうした見方が発掘とその整理が進められた結果多くの学者が認める通説的なものなのか、それとも報告を行った李毓芳という人の独自の見解なのか、そこらへんはよくわからない。この李毓芳氏の報告を紹介した2007年の記事の最後のほうに、「しかしながら、今の場所(?)から阿房宮を発掘できなかったからといって、決して阿房宮が無かったということにはならないし、阿房宮が完成しなかったということにもならない。単に前殿が完成しなかっただけかもしれないという専門家もいる」という意見も紹介されているので、まだまだ議論の余地はありそうかも。
 もう一つ、秦王子嬰が劉邦に降伏した後、咸陽の都は項羽に引き渡され、その時項羽は阿房宮を焼き払い、その火は3ヶ月に渡って燃え続けたといわれていたらしい。しかし阿房宮の発掘調査の結果、焦土がほとんど発見されず、項羽が阿房宮を焼き払ったのは伝説に過ぎないと判明したとのことであるが、改めて『史記』の記述を探したところ、項羽本紀に


項羽引兵、西屠咸陽、殺秦降王子嬰、燒秦宮室。火三月不滅。


とあり、「秦の宮室を焼いた」とは書いてあっても、「阿房宮」を焼いたとは書かれていない。それでは、いつ頃から項羽が阿房宮を焼いたと言われるようになったのか、ちょっと検索してみたがよくわからなかった。

南京で三国時代の古墓を発見

11月はいろいろと忙しくあまり更新できませんでした。
とりあえず例によって枕流亭 さんの中国史ニュースから気になった文物ニュースでも


江寧發現三國古墓 可能仍然與孫權家族有關(圖)  2007-10-23
(繁体中国語)


によると、南京市の江寧区から三国孫呉の時期と見られる古墓が発見されたとのこと。


○発見場所
・南京市江寧区上坊鎮中下村孫家墳


 江寧区上坊鎮は南京の中心部から南東に位置する。

グーグルマップ(簡体中国語)で南京市と江寧区の位置関係を示すと


http://ditu.google.cn/?ie=UTF8&ll=32.045333,118.828125&spn=0.317781,0.925598&z=10&om=1


更に拡大していくと上坊鎮の地名が確認できる


http://ditu.google.cn/?ie=UTF8&ll=31.959517,118.881083&spn=0.00994,0.028925&z=15&om=1


 この南京市江寧区上坊鎮中下村孫家墳では、2005年12月22日に三国呉後期のもと思われる大墓が発見されている。この大墓について検索してみたところ、


南京發現規模最大結構最複雜的六朝墓葬(組圖) _中國網  2007-01-25
(繁体中国語)全3ページ


南京 スケールの大きな六朝時代の墓を発見--人民網日文版-- 2007.01.24
(日本語版中国ページ)


なんかの記事が参考になる。大墓の被葬者は不明なものの、三国呉晩期の貴族・宗室のものと見られるとのこと。


○被葬者
・不明ながら近くの三国呉の大墓と関係がある可能性がある


 今回発見された墓は前述の大墓の東北500m以内の場所にあることから、大墓と関係がある可能性が指摘されており、三国呉の孫氏の家族墓である可能性もあるとのこと。


○呉の陵墓について
・梅花山西坡博愛閣下の大型墓穴→孫権の陵墓?


梅花山は南京市の東、孫文の墓(中山陵)や明の太祖洪武帝の墓(孝陵)がある鍾山風景区に位置する。


http://ditu.google.cn/?ie=UTF8&om=1&ll=32.044751,118.844433&spn=0.019862,0.05785&z=14
(簡体中国語)


孫権の陵墓について詳しく解説しているサイトを見つけたのでリンク

孫権墓・徹底解剖

(日本語)


 もともと梅花山は、孫陵崗・呉王墳と呼ばれており、孫権の陵墓ではないかと言われてきたものらしいが、本当にそうかどうかはわかっていなかったらしい。記事によると数年前に地震観測機器を使って梅花山の地質構造調査(?)を行ったところ博愛閣の地下に大きな墓穴とみられるものが発見され、発掘調査までは行われていないものの、これが孫権の墓室ではないかと見られているらしい。これに関する記事もみつけたのでリンク


南京發現疑似孫呉陵墓 工程浩大--科技--人民网  2006年03月06日(原題簡体字)
(簡体中国語)


・宋山大墓→呉の景帝孫休の定陵の可能性あり


 宋山大墓について検索してみたところ、南京市の西南に隣接する安徽省馬鞍山市で発見されたものらしいが、詳しいことについてはわからなかった。


・孫皓→洛陽に葬られる
・孫亮→廃位されて殺される


以上、記事では呉の4人の皇帝の陵墓について検討した結果、江寧上坊鎮の大墓が呉の皇帝の陵墓である可能性は無いとするが、呉の宗室に連なるものの墓か、「孫」や「浩」の字が刻まれた墓磚が出土していることから、或いは孫皓が在位中に自分のために建設した陵墓であるの可能性も指摘する。


以上、記事を元にまとめてみたが、今回発見された墓の解説よりも、近くで2005年に発見された大墓について再考したという感じが強かった。

揚州市の前漢墓の董漢は公主の夫?

揚州市で前漢の董漢夫妻合葬墓が発見される の続報。


 江蘇省揚州市西湖鎮蠶桑村で発見された前漢の董漢夫妻合葬墓について、新たに文字の書かれた文物が発見されたということと、董漢の身分に関して新たな推測がされたとのこと。


西漢夫婦合葬大墓之謎 大墓墓主董漢可能是駙馬  2007-10-14
(繁体中国語)


の記事をもとにまとめてみた。


○漆塗りの箱(漆盒 しっこう)から文字が発見される
・出土地点;墓の南側?(南側廂)
・漆盒の大きさ;縦31.9cm、横11.9cm、高17.9cm
・文字の書かれた部分;漆盒の側面に、二行に書かれていた
・文字の内容;居下裏(里)中,月(讀rou)杯槍(通‘箱’)盛五十枝


 書かれていた文字の内容について、自分の知識では読み取るのは無理ですが、前半の「下里」という言葉については、辞書に死者が葬られる場所という意味が載っていて、『漢書』の用例が引かれている。また「月」という字に記事では「rouと読む」と注がついていますが、この「月」は日月の月ではなくて肉月、つまり肉の異体字ということになります。記事では専門家の推測として、董漢の死後に現地の官僚が一箱50串の肉を送って祭礼をしたのではないかという説を紹介しています。


○甘泉山窯莊2號墓との類似
・男は左、女は右という漢代の葬制を守っている
・女の棺は男棺よりやや大きいよう
・甘泉山窯莊2號墓の女棺の墓主が2塊の金子を握っていたのに対し、西湖鎮漢墓の女棺からは瑠璃玉衣が出土→いずれも被葬者の女性の身分が諸侯に匹敵することを示す

以上から、記事では女棺の被葬者は公主の身分で、董漢はその婿(駙馬)であった可能性を指摘する。


 原記事では、董漢が駙馬であった可能性があると書かれているが、駙馬とは駙馬都尉という官職の略称。辞書に拠れば、皇帝の娘婿は駙馬都尉に任命されることが通例となったため、「駙馬」で皇帝の娘婿を指すようになったらしい。『通典』巻29 職官11 の三都尉(奉朝請附)の説明によると、


奉車・駙馬・騎三都尉、並漢武帝元鼎二年初置。舊無員、或以冠常侍、或卿・尹・校尉左遷爲之。…晉武帝亦以皇室外戚爲三都尉而奉朝請焉。元帝爲晉王……後罷奉車・騎二都尉、唯留駙馬都尉・奉朝請而已。諸尚公主者、若劉惔・桓温等皆爲之。宋武帝永初以來、以奉朝請選雜、其尚主者唯拜駙馬都尉。…梁陳駙馬皆尚公主者爲之。


とあり、よく読み取れないところもあるが訳してみる


奉車都尉・駙馬都尉・騎都尉の三つの都尉は、いずれも前漢武帝の元鼎二年(前115)に初めて設置された。もともとは定員が無く、常侍の官職にある者に加えたり、卿・尹・校尉であった人たちが左遷されてなったりした。…西晋の武帝の時にはまた皇室や外戚を三都尉(のいずれか)に任命したうえで奉朝請の号を加えた。東晋の元帝が(即位する以前に)晋王を称していた時に云々……後に(いつのことだか明記されていないが東晋時期のことだと思う)奉車都尉と騎都尉の二都尉を廃止して*1、ただ駙馬都尉と奉朝請を留めた。およそ公主を娶った者、例えば劉惔や桓温等はみなこれ(駙馬都尉奉朝請)にした。宋の武帝の永初(420-422)以来、奉朝請の官は様々な出身の人が任命された(?)ことから、公主を娶った者はただ駙馬都尉の官にのみ任命された。…梁・陳時代の駙馬は皆公主を娶った者がなった。


*1…南朝宋以降も奉車・騎二都尉は存在しているので、東晋の元帝が晋王を称していた時の一時的なものか、それか外戚に限った場合の話だろうか?


また、『通典』の同じ部分の注に、陳の袁樞の議論が引用されてこうある。(『陳書』巻17及び『南史』巻26の袁樞伝にも同じ内容がある)


駙馬都尉、置由漢武、或以假諸功臣、或以加於戚屬、是以魏[曹植]表駙馬・奉車[趣]爲一號。[『齊職儀』曰、凡尚公主必拜駙馬都尉。]魏晉以來、因爲常(瞻)準。([ ]、( )内は『陳書』との異同を示した)


駙馬都尉は、前漢の武帝によって置かれ、功臣に授与したり、外戚に加えたりした。だから魏[の曹植]は表をたてまつって駙馬都尉と奉車都尉とのうちのどれか一つに[すぐに]なりたいと求めたのである。*1[『齊職儀』には、およそ公主を娶った場合は必ず駙馬都尉に任命されるとある。]魏晋以来、こうして(公主を娶った者を駙馬都尉にすることが)標準となった。


*1…曹植「求通親親表」。曹植の文集のほか『文選』『三国志』曹植伝等に収録される。


また『漢語大詞典』の駙馬の項目では、三国魏の何晏がはじめて公主の夫であるということから駙馬都尉に任命され、後に皇帝の娘婿はこの例に従ってこの称号を加えた、と解説する。ただし根拠が示されておらず、本当に何晏の故実に基づくものかどうかは今のところ自分には確認できていない。
 陳の袁樞の議論では、皇帝の娘婿が駙馬都尉となるのは魏晋以来の故事としており、『通典』の本文では、もともと外戚は駙馬都尉を含めた三都尉のいずれかに任命されることが多かったが、東晋から宋以降になって駙馬都尉に限定されるようになったと読める。従って『通典』によれば、漢代では皇帝の娘婿=駙馬都尉の図式はまだ成り立っていなかったようだ。したがってこの記事で「董漢が駙馬であった可能性がある」と書かれているが、この記事の「駙馬」は官職としての「駙馬都尉」ではなく、単に「皇帝の娘婿」を指す言葉と解釈するのが妥当なよう。(ただし、本当ならば正史等の史料に出てくる公主を娶った者の官職を逐一調べて『通典』の記述が正しいか調べる必要があるけれども、そこまではできませんでした。それ以前に、本職の研究者による研究があってもおかしくなさそうですが。)


 元記事では「甘泉山窯莊2號墓」との比較を行っているが、「甘泉山窯莊2號墓」についてはよくわからなかった。
 ただし、


話説甘泉山
(簡体中国語)


によると、今回発掘された董漢の墓と同じ江蘇省揚州市に属する揚州市邗江区甘泉鎮の甘泉山から38座という大量の漢墓が発見されているらしく、恐らくこの中の1つではないかと思う。中でも一号漢墓と二号漢墓は後漢の広陵王劉荊とのその后妃の墓で、広陵王の金印が出土したことで有名らしい。


广陵王璽掲開日本百年懸疑 (原題簡体字)
(簡体中国語)


特集:九州国立博物館
(日本語)


『美の国 日本』~作品紹介
(日本語)