鷄肋編 | 購書偶記

鷄肋編

雞肋編

宋・莊綽 撰 蕭魯陽 點校
唐宋史料筆記叢刊
中華書局 1983年
縦組繁体 平装 B6
全1冊 157頁


当ブログは「購書偶記」の名前通り、購入した書籍について書いていくブログ…になるはずだったのだが、いざやってみるといろいろなことに気をとられ、まだ2種類の本しか紹介していないことにいまさら気づいてしまった。そこでだいぶ前に購入した本だがシン皇后?ケン皇后?~古詩紀目録 で使った『雞肋編』でも紹介してみようかと思う。


『四庫全書総目提要』では『鷄肋編』三巻 宋・莊季裕撰として子部小説家類雜記之屬に分類する。


○書名
『三国志』魏志 武帝紀の注と『後漢書』楊修伝に載っている有名な故事から。
鶏肋の故事についてはここのブログの記事 が詳しい。
捨てるには惜しいエピソードをいろいろ集めて編纂した書物、という感じかな。
なお、宋・趙崇絢の『雞(鷄)肋』(『提要』は子部類書類に分類)と宋・晁補之や宋・何希之の文集の名前である『雞(鷄)肋集』は似た書名であるが別物。


○作者
作者の莊綽(そう しゃく)は字が季裕で、『提要』では「字を以って行われる」と言って、莊季裕の名で著録する。(余嘉錫『四庫提要辨證』では『提要』の説は誤りとする)作者についてはまとまった伝記史料が無く、この中華書局本では附録二として、他の文献の断片的な記述と『雞肋編』中に出てくる本人に関する記述から、作者の莊綽について詳細な考証を行っている。

それによれば、莊綽は『雞肋編』の冒頭の自序に「清源」の人だと書いているが、本籍地は福建省の泉州惠安県で、「清源」とは泉州の異称清源郡を指す。山西省太原の南にあった清源県のこととする説があるが誤りだとのこと。ただし泉州惠安県に本籍地として居住していたのは先祖らしく、莊綽自身は主に潁川に居住していたらしい。

『雞肋編』中には北宋元祐中(1086-1094)に作者本人が見聞したことに関する記事から南宋の紹興10年(1140)の事件に関する記事があり、北宋から南宋初にかけての人である。(余嘉錫『辨證』)また、中華書局本の附録二では、他の文献史料からの考察も交えて、紹興13年~19年の間に70才未満で没したと推測する。
莊綽は、『雞肋編』以外にも著述が多く、中でも本草に関するものを1つ、灸に関するものを2つ著作するなど医学に深い造詣があった。そのうち『灸膏肓腧穴法』1巻(『宋史』藝文志 醫學類では『膏肓腧穴灸法』1巻とする)が日本に現存しており、1987年に台湾の新文豐出版公司から『故宮珍蔵中医名著三十四種』に影印されているらしい。(筆者は未所蔵)
漢方の医学書を解説しているページを見つけたのでリンク


中国新刊の日本関連古医籍


○成書の年代
本書の上巻の冒頭に莊綽の序文があり、紹興3年(1133)2月9日と記している。しかし、本書の内容に紹興3年以降の記事が見られるため、紹興3年にいったん成書した後に、また増補していったものではないかと見られている。(『四庫全書総目提要』)


○雞肋編のテキスト
清にいたるまで刊本がなく、鈔本(手書きの写本)として伝えられる。
以下、中華書局本の校點説明に拠って解説する。

  • 南宋・賈似道『悦生堂隨鈔』所収本…雞肋編が『悦生堂隨鈔』に収録されていたことは元・陳孝先の跋に見える。『悦生堂隨鈔』自体は『説郛』に極一部が収録されて伝わるのみ
  • 元影宋鈔本
  • 明穴研齋鈔本…中華書局本の校點説明は以上の二本について、惜しいことに目にする機会が無かったと述べる。
  • 清人影鈔元影宋鈔本…四庫全書本の底本
  • 四庫全書本…中華書局本附録一に収められる邵懿辰の跋文によると四庫全書本は一条を刪去し二条を刪改しているらしい。
  • 琳琅秘室叢書本…胡珽刊。咸豐3年原印活字本。文瀾閣四庫全書本を影元鈔本で校勘。校記有り
  • 琳琅秘室叢書本(光緒14年重印活字本)…続校有り
  • 涵芬樓排印本…夏敬觀が琳琅秘室叢書本を邵懿辰鈔文瀾閣本で校勘して、1920年に商務印書館から印行
  • 傅增湘手校本…1924年に傅增湘が咸豐琳琅秘室叢書本を影元鈔本で校勘。未刊
  • 叢書集成本…光緒琳琅秘室叢書本を排印。校勘が精密で無い。
  • 五朝小説大觀本…文字の誤りが多い
刪本
  • 説郛本(宛委山堂本)…清順治3年刊。諱改すること比較的厳重。
  • 説郛本(涵芬樓排印本)…1927年に商務印書館から印行。条数は宛委山堂本と同じだが、文字は涵芬樓排印本雞肋編に近い。
  • 舊小説本
  • 宋人小説本…以上の二本は文字の誤りが多い

中華書局本は、涵芬樓排印本雞肋編を底本にして、北京図書館蔵影元鈔本・傅增湘手校本と浙江省図書館蔵文瀾閣補鈔本・上海図書館蔵琳琅秘室叢書本等で校勘、各巻の末に校勘記を附す。
なお『増訂四庫簡明目録標注』の邵章の續録によると、元鈔本は1巻で、3巻本は後人が分けたものとのこと。


○中華書局本の構成

  • 校點説明(蕭魯陽 著)
  • 目録…原本に目録が無いため、新たに各条ごとに表題をつける
  • 雞肋編本文(上中下の3巻。校勘記有り。上巻の首に莊綽の序文)
  • 附録1(跋文集)…元・至元5年(1339)陳孝先跋。清・咸豐3年(1853)胡珽跋。清・咸豐5年(1855)邵懿辰跋。清・咸豐11年(1861)邵懿辰跋。民国8年(1919年)夏敬觀跋。
  • 附録二 莊綽生平資料考辨(蕭魯陽 著)

数年前になんとなく唐宋の筆記史料を買い集めていた時に購入した本。しかし、購入後ろくに中味を読むこともなく、そのまま本棚に眠らせて埃をかぶった状態でした。今回甄姓の発音について『雞肋編』に詳しい記事があることを知った時も、宋・趙崇絢の『雞肋』という書物と勘違いして、全然違う本を探し回ったり、『雞肋編』を所蔵していること事態すっかり忘れていました。まぁ、しかし結果的には購入数年後にこのブログの記事のネタとして役立てられたからよかったです。
ところで、この本の後ろに収められている跋文の中に邵懿辰という人が書いた物があります。この邵懿辰という人は、清朝の儒学者で康有為等に影響を与えた人物らしいですね。
今邵懿辰について検索したところ


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B5%E6%87%BF%E8%BE%B0
(ウィキペディア)


中国史人物事典~清-咸豊同治期


にある程度詳しい情報が有る。

下の中国史人物事典の説明に拠れば


咸豊十年(1860)、浙江巡撫王有齢に従って杭州に入り、太平天国軍と戦った。翌年、城が陥落して殺された。


とあって、邵懿辰は杭州陥落と共に太平天国軍に殺されたらしい。
本書中に邵懿辰の跋文が二つ収録されているが、そのうちの遅い方の咸豐11年(1861)の跋文に


季裕生南北宋之交、遭時亂離、所記引杜詩「喪亂死多門」二條、極爲沈痛。(中略)…辛酉十一月十四日復閲一過。又記。時杭城被圍五十日矣。


とあって、この跋文を書いた時点で太平天国に杭州城を囲まれてすでに50日になっていたらしい。『清史稿』の穆宗本紀並びに疆臣年表に浙江巡撫の王有齡が12月24日に殉じたとの記述が見えるので、邵懿辰が殺されたのも恐らく12月24日付近であったろう。とすれば、この跋文は杭州を敵軍に囲まれたなかで死の一ヶ月強前に書かれたものとなる。
この跋文中に「莊綽は南宋と北宋の境目の時代に生き、争乱の時にあたり、杜甫の白馬詩の一節『争乱の時は死の原因がいろいろと多い』という句を引用する記事が二つあり、極めて沈痛である」と述べている。
この杜甫の詩を引用する『雞肋編』の記事の一つは、北宋滅亡の混乱で食料が高騰し人が人を食う状況に対してのもので、もう一つは、戦乱から離れた平穏な地方でも天災で多数の人間が死亡している状況に対してのもの。
恐らく邵懿辰は『雞肋編』中の北宋末から南宋初の大混乱を伝える記事と、まさに今、自分の居城が敵軍に囲まれている状況を重ねあわせてこの跋文を書いたのだと思うと感慨深い物がある。