先月、嘔吐下痢して発熱して以来、


特に、某さんに学ぶことになったけれども、自分でカルマを解消しようとしているのを妨害されて縁を切ったことについて、母親が依存していた新興宗教の教会長や教祖の正体について知るために必要な経験だったことに気づいたことがきっかけで、先祖のカルマ=両親とのカルマを解消するための重要なヒントがわかりました❗️

これは、今年から大殺界=天中殺=陰のエネルギーが最も強い周期に入ったことで、徹底的に自分自身と向き合って、カルマを解消することを意識して過ごしてきたお陰だったと思います。

今になって振り返ると、6月は清算の月で嘔吐下痢発熱した日がちょうど夏至の日でもあったことも関係していたんだな、と思いました。

ホロスコープを見ていて、私の現世の人生の最終目標が、「親が執着している既成概念と古い価値観を破壊して、自分独自の価値観を構築すること」だということがわかったことで、

両親と弟や、両親の周囲にいる親族をはじめとする人々には、己を客観視して現状をしっかり直視して、物事の本質や問題の根源をちゃんと見る、ということが全くできなくて、私にはそれがちゃんとできるというか、できるようになる必要がある、ということも理解できるようになりました。

私は、相棒の右京さんみたいに、疑問に感じたことは納得いくまで調べたり、追究しないと気が済まないところがありまして。

他人からは時間の無駄、エネルギーの無駄にしか見えなくても、納得いくまでやることで、初めて真実にたどり着くことができるようになっているんだな、ということが、ここ数年間の経験でわかりました。

なので、疑問とか腑に落ちないものを感じる間は、まだ結論にたどり着いてはいないんだな、と思った方が良い、と思えるようになりました。

これは、頭とか心(ハート)の問題ではなくて、魂の問題で、頭と心で決着したつもりになっても納得しきれないという場合は、魂がまだだと言っている、ということだということだったんですね。

そんな風に、今年に入ってからは、ちゃんと魂の声に耳を傾ける、ということを意識してきましたので、12年前のような大きなトラブルに遭っていないのだと思います。

というか、大殺界の時期に大きなトラブルが起きると感じるのは、それまでの期間にトラブルの芽が存在することに気づいていなくて、大殺界の時に突然、降って湧いたように感じるだけで、大殺界に入る前にトラブルの芽の存在に気づいて軌道修正しておけば、大事には至らない、ということだったんですね。

易経を学んだお陰でそのことに気づくことができまして、今のところは何とかなっています。

私は、易経の「霜を踏んで堅氷至る」という言葉をよく引用しますが、うっかり雪道に入ってしまっても、スリップしない段階でUターンして安全な道に戻れば良いだけの話で、「これぐらいの雪道なら大丈夫」と甘く見てそのまま進んでしまうと、立ち往生してしまって、最悪の場合は凍死してしまう、という意味の言葉です。


自分がやっていることが間違っていることに、やり直しがきく段階で気づいて修正すれば、たいした問題にはならないのですが、「これぐらいたいしたことない」とたかをくくって、修正を怠ると、取り返しがつかない事態に陥ってしまう、ということですね。


私の夫は、なかなか自分の間違いを認めることも、受け入れて修正することもできない人間で、全部私に責任を丸投げして、何事もなかったように口を拭って涼しい顔をしている人間でした。


夫は戦国時代の前世でも、そういう人間で、私が夫の尻拭いばかりしていたので、挙げ句の果てには、私が心が折れてフォローできなくなってしまい、そのせいで夫の前世は悲惨なことになってしまったので、現世では、夫婦になって、戦国時代の前世ではできなかった、「私に感謝して尽くす」ということが、夫の課題だと、Thambaさんが対面セッションで教えてくださいました。


そのお陰で、夫も何とか自分の非を認めて反省することができるようになってきましたが。


夫のこういう傾向は、実は戦国時代の前世だけでなくて、舅も同じようなことをしているのを見て育ったせいだというのもある、とも思っています。


それはともかくとして。


自分の間違いを認めることができなくて、他人のせいにするということは、私の両親も夫や舅と同じなのですが、両親の場合は、更に社会的地位だとか名誉とかいう類いのものに対する執着や欲求が強すぎる、という問題があるんだな、ということも最近になってようやく気づくことができるようになりました。


私も今までの人生経験で、自分の間違いと向き合うことや受け入れて修正するということは、非常に苦痛を伴うことがわかっていますが。


けれども、勇気を出してそれをやってしまった後に、ちゃんと乗り越えた、という達成感や安堵感がある、ということを経験してしまうと、自分の間違いと向き合ったり受け入れて修正する時の苦痛が、それをやらなくて後で取り返しがつかないことになってしまった時のダメージに比べると、どうということはない、ということもわかるようになりました。


ということは、夫も最近になって、やっと自分の非を認めて反省したら、トラブルのダメージを最小限で済ませることができるようになったことを経験したお陰で、自分の非を認めることができるようになった、ということでもあるんですね。


実は昨日、息子の学校で進路関係の説明会があることをうっかり忘れていまして、気がついた時には終わっている時間になっていました。


その原因は、私も夫もスケジュールの確認を怠ってしまったことなんですが。


私は、最近、両親との関係のことで煩わされてしまっていたことで、息子のことに対して、夏休み目前だということもあって、気が緩んでしまっていたな、と反省しました。


精神的な疲れもあると思うので、少し休みます。


それから、夫の方が録画したテレビ番組を見る、たまっている録画を消化することにばかりかまけてしまって、それが優先順位の最上位になってしまっているので、それはおかしい、と以前から注意していたのですが、なかなか聞き入れられなかったので、反省して改める機会だと思って注意しました。


テレビ見ていて会社に遅刻することもあったので、今まで改められなかったことの方がおかしいと思うので、この機会に徹底的に反省させよう、とも思いました。


夫のこういう自分本位なところが、お金のダメージにまで発展してきていたことを思うと、今回の機会に、テレビを見ることが生活の最優先事項になってしまっている、ということを徹底的に改善すれば、お金の問題も改善するようになるんじゃないかとも思います。


夫はこうやってまだ、改善することができるうちに、自分の間違いを認めて反省し、改めるということができるようになってきましたが。


両親にしても、舅にしても、失敗を回避する生き方をしてきた人間は、反省することもできないし、取り返しがつかないことになって後悔したまま人生を終えることになる、ということなんだな、と思いました。


私が夫と結婚した時が、もしかすると舅が自分の生き方や考え方の間違いに気づいて改める最後のチャンスだったのかもしれませんが、それをせずに私に八つ当たりするだけだったので、姑が認知症になって亡くなったことで、後悔先に立たず、ということを痛感させられているんだろうな、と思います。



その一方で、両親の社会的地位や名誉に対する執着や欲求の強さは、かなり根深いカルマだと感じるので、源満仲よりももっと古い時代、やっぱり薬子の変や平安遷都の時代について、もっと追究する必要がありそうです。