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前回のつづきです。

閑話休題


前回記事の冒頭で述べたある武術家の先生のセミナーを受講した際に、中村天風という思想家の安定打坐というものも教えていただきました。


ブザー音をしばらく鳴らして、音が途切れた瞬間からしばらくの間、無念無想の感覚を味わうことができるというものです。



三ツ門流初回体験会の「瞬視〜世界の存在を開く〜」ではまずこれをやってもらうことにしてますが※、なぜ無念無想の感覚になるのか?

私なりの分析を試みてみます。


例えばこんなことを試してみるとします。(前述のセミナーでやっていただいた事と一部内容が重なります。)


目の前に何か置きます。何でも良いのですが、ここでは一個のりんごだとしましょう。


りんごに注目します。そこでブザー音が鳴り、しばらくして音がはたっと止まります。


すると、ここで無念無想の感覚になれるのですが、


りんごの存在の、その「存在する」という感じが浮き立ちます。


何故か? やっと聴覚まで辿り着けそうです。


ブザー音は耳障りですが、それがしばらく鳴った後にパッと消えると、りんごにとっての背景が浮き彫りになるのです。


と言うのも、聴覚は周囲の事柄を察知しようとするものなので、ブザー音に覆われていた周囲の場自体がクリアになるからです。


《周囲=背景》が背景として浮き彫りになることで、そこに存在するりんごはより一層浮き立つわけです。


視覚より聴覚に頼った方が反応が速い、と記事の冒頭で書きましたが、全盲のテレビゲーマー(ブラインドゲーマー)として有名なスヴェン・デ・ベーヘ氏は格闘ゲーム『ストリートファイター6』の最高ランク「マスター」に到達したことなどで話題を呼んだそうです。


大抵の人は「見えないのに何が楽しいのか?」という、差別的に聞こえるが素朴な疑問が湧くのではないでしょうか? 視覚情報がなくとも視覚野が機能している可能性はありますし(分かりませんが)、そうでなくとも、身体を介して当然に空間認識はあるわけです。


ですから、目の前のりんごも、単に視覚情報のみから知覚されたりんごではなく、身体を介したりんごでもあるはずです。


幼子がいないいないばあでよく笑いますが、人形か何かを本か下敷などで隠して、いないいないばあで姿を現したら、やはり面白そうによく笑うでしょう。


おそらく、何かが「存在する」という感触が新鮮で面白いのでしょう。


だとしたら、りんごを見ながら安定打坐をするのと近い感触では?とも思います。同一とまでは言いませんが。


では、りんごが目の前になかったらどうなるでしょう。


つまり何かに特に注目しているというわけではなかったら?


背景がクリアになるだけなのですが、それは世界そのものが身近に迫ってくる感覚とも言えます。あ、生きてる、って感じとも言えます。


さて、りんごがあろうとなかろうと、上記のような「状況の開示」をハイデガーは瞬視(Augenblick)という言葉で表現しました。


初回体験会での

瞬視〜世界の存在を開く〜

という表現はここからきています。


Augenは「目」、blickは「一瞥」なので、Augenblickの通常の意味は「一瞬」「瞬間」ですが、ハイデガーの『存在と時間』では瞬視と和訳されています。


何故Augenblickなのか?


「突きのワン・ツー、蹴り」という一連の動作は、時間的幅がありますが、それを一括りに知覚できますよね。


一括りに知覚できるものすなわち出来事は、瞬間という間(ま)として出来するものです。


ハイデガーが先の現象をAugenblickとしたのも、時間的幅のあるものを一括りにできるからでしょう。


ハイデガー曰く、瞬視とは


将来(死への先駆)

既往(自分で選んだわけではない状況へすでに投げ込まれている)

現在(状況への決断)


が一つに凝縮した出来事です。


なのでハイデガーの瞬視は、


「時間の一点」ではなく、

「本来的時間性が開ける出来事」と理解できます。


(ちなみに本来的(eigentlich)のeigenは英語のownに相当するので、〈本来的〉は「己自身の」という含みを持ちます。)


また、ハイデガーは瞬視を

〈決意性(Entschlossenheit)の中で、状況を引き受ける開け〉とも説明しています。


Entschlossenheitは覚悟性とも訳されています。


〈不安〉によって死の可能性が開示されるのですが、それは将来死ぬのが怖いという心理状態ではなく、


自分の存在そのものが有限で拠り所なく宙吊りであることが自分自身に暴露されるということです。


言い換えれば、己の死を死ねるのは己自身だけだし、自分の人生を生きられるのも自分だけということが露呈します。


まあ、普段はそんな当たり前のこと意識しませんし、個人(人格)は社会システムの中で何かを期待される存在ですが、人間存在は社会システムに属さないんですね。人間は社会システムにとって環境なんです。


「???」と思われる方も多いかも知れませんが、こう考えてください。


私は日本国民である前に一人の人間です。その逆はありません。逆さになっちゃうと、「日本人以外は人間じゃない」みたいなことになっちゃいます。


しかし、一介の日本民族に過ぎないという〈被投性〉を決意性を持って受け入れることもまた瞬視のうちなのです。


無念無想と言う割には己自身の意識があったりして、何が無念無想なのか分かりづらいですが、もちろん意識がないわけではなく、



世間の雑音、

反射的反応、

空虚な迷い

から自由になり、

「この状況」へ澄んで応答するようになる、ということです。


まあ、一日24時間そうであり続けることは無理でも、戦いの緊張の中ではそうありたいですね。


私がたびたび話に出すチャールズ・サンダース・パースは、急迫した状況では、科学的探究と違って、本能に従うべきだと主張しました。


ちなみに彼が提唱したプラグマティズムはあくまでも科学的真理探究の態度や方法論だったのに、プラグマティズムの名で「真理とはその分野での有用性のことだ」とかいろいろ解釈し直されたので、元々の自分の考えを「プラグマティシズム」という〈誰も名乗ろうとしない様な醜い名前〉で呼ぶようになりました。



初回体験会では次の順番で進行します。

瞬視〜世界の存在を開く〜

収束〜意識の線を一点に集める〜

散開〜気配を広げる〜


収束は散開の前提となっており、散開は瞬視の前提になっています。



最後に、全くの余談ですが、ジャック・デリダを読んだことのある方は「聴覚中心主義」という言葉を思い浮かべるかも知れません。中国武術でも聴勁はあるのに視勁とか触勁とは言いませんけど、もちろんそういうことではありません。


当たり前のことですが、役割が違うだけで優劣はありません。


視覚は、情報量が多いこともあるでしょうが、未来を予測しようとする分だけ情報処理に時間がかかるのではないでしょうか。


聴覚はリアルタイムで判断するのに適しており、触覚の類は〈既に〇〇〉という意味を含んだ知覚に使われるんではないでしょうか。まあ、仮説ですけどね。



※ セミナーの内容を自分の稽古仲間と共有して良いか伺ったら、もちろんです、これはもうあなたのものですからと言っていただきました。

でもブログで一般公開している私の稽古会で全く同じことをやるのも憚れますから、興味のある方は中野由哲先生の古伝体術をぜひ一度は体験して頂きたいです。