基本情報
神社名:葛原岡神社
御祭神:贈従三位右中弁日野俊基卿
社格等:ー
鎮座地:神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
最寄駅:北鎌倉駅・鎌倉駅(どちらからもかなり距離あり)
駐車場:境内に6台分あり ※土日祝日・巳の日は使用不可
御朱印受付時間:8時30分~16時30分
公式サイト:http://www.kuzuharaoka.jp/
御由緒
鎌倉時代末期、執権北條氏の悪政を憂いた後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して平安の世となすべく、計画を練られました。
当時、日野俊基卿は優秀な文官また学者として知られ、文章博士・右中弁・蔵人に任ぜられて天皇の厚い信任のもと討幕に向けて奔走、楠木正成を説得して味方にするなど大きな役割を果たしながら、北條氏に捕らわれの御身となり、無念のご最期を遂げられました。しかし、その翌年に幕府は滅亡し、俊基卿のご尽力が実り「建武の中興」の大業は成ったのです。
明治の聖代に至り、明治大帝は俊基卿の御事蹟を明治維新の先駆けであるとして深く追慕せられ、勅旨をもって従三位を追贈、明治二十年にご最期の地である鎌倉源氏山の葛原岡に俊基卿を御祭神とする「葛原岡神社」をご創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿が造営され鎮座祭が執り行われました。
以来、鎌倉・由比ガ浜の総鎮守、また「開運の神様」「学問の神様」「良縁の神様」として、今日でも地元を始め多くの方々より篤く崇敬されております。
頒布の資料より
日野俊基
文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。正中元年(1324年)の正中の変で、討幕を計画したと疑われ、同族の日野資朝らと逮捕された。捜査と審議の結果、佐渡に流刑となった資朝とは違い、俊基は冤罪と判定された。その後、京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられる。得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。
辞世の詩は 「古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清」(古来の一句 死も無し生も無し 万里雲尽きて 長江水清し)
明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、明治20年(1887年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。
Wikipediaより引用、一部改変
御朱印
御朱印帳
汎用の御朱印帳を多数用意。
※筆者は拝受していないため、情報のみ記載。
境内案内
合鎚稲荷社は、鎌倉在住の刀工・五郎入道正宗の後裔・綱廣の邸内にあった「刃稲荷」が始原と伝わります。後に、その跡地の所有者となった三菱財閥四代目当主の岩崎小弥太が大正八年、「合鎚稲荷社」として復興、平成十二年にその地を取得したセンチュリー文化財団が社殿を新たに建造しました。なおこの現社殿は、愛媛県松山市の重要文化財「石手寺訶梨帝母天堂(鎌倉時代後期)」を模したものです。その後、鎌倉歴史文化交流館が同地に開館するにあたり、平成二十五年に合鎚稲荷社は葛原岡神社の境内に末社として御遷座されたのです。合鎚稲荷社の「合鎚」とは、刀を鍛えるときの動きに由来するものです。その御利益は稲荷さま故に、『五穀豊穣』『商売繁盛』『家内安全』『夫婦円満』等ございますが、『合鎚』の言葉通りに、人々がお互いに「あいづち」を打つように円滑に成ること、すなわち『人間関係』を良い方へと導く、という御利益もございます。稲荷さまの御利益に手を合わせて祈ることが、すべての幸せへの道となるでしょう。昔より 刀鍛えし 合鎚の 稲荷の宮に 結ぶ幸かな
頒布の資料より
参拝を終えて
源氏山の頂上に鎮座する当社。鎌倉にある他の神社と比べると規模は小さいものの、ハイキングコースの一部になっているため当社を訪れる参拝客は多い。筆者は正月に参拝したため特に多く感じた。また参拝時に神職の方による簡単なお祓いを受けることができ、忘れられない経験となった。
地図