基本情報
神社名:御霊神社 (権五郎神社)
御祭神:鎌倉権五郎景正
社格等:村社
鎮座地:神奈川県鎌倉市坂ノ下4-9
最寄駅:長谷駅・極楽寺駅
駐車場:なし
御朱印受付時間:9時00分~17時00分
公式サイト:ー
御由緒
平安時代後期の創建。祭神景政公は、桓武天皇の(五十代)末裔、平氏一門で鎮守府将軍平良文が祖父。父は鎌倉権守景成。
当時関東には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の所謂関東平氏五家が割拠しており、景政公はこれらの平氏五家と共に、鎌倉武士団を率い、現在の湘南地域一帯を開拓した開発領主。「奥州後三年記」によれば、景政公は十六歳にして源義家に従い、奥州後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳥海三郎という者に右の眼に矢を射込まれ、然し彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って相手を倒してしまった。そして味方の陣に帰り兜をぬいで「景政手負いたり」と大声してたおれた。そこで味方のこれも亦剛の者、三浦の平太為次という武士が景政の眼に刺さった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をかけた。すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。
為次驚いてその無礼を謝し膝を以て押さえその矢を抜いた。人々此を見聞し景政の功名いよいよ高しと。
こうしたことから、景政の勇名は鎌倉武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになった。
鎌倉時代「吾妻鏡」の中に、文治元年(平家滅亡の年)八月二十七日、御霊社の社殿が鳴動して地震の如くすさまじく、幕府から使者が参向し御願書を奉納して賜物を下し神楽を奏したと書かれており、又その他にも五霊社の記事が多々あるのをみても御霊社はさまざまな奇端の現われる神社として幕府の崇敬の度が厚く、諸行事がこのお宮を中心に行なわれたことがうかがわれる。
江戸時代には眼病平癒、除災招福の神社とされ、現代にあっても景政公の旺盛な精神力は初志の貫徹を祈る人々への厳しい励ましとなっている。
神奈川県神社庁より
御朱印
御朱印帳
オリジナル御朱印帳:1500円 (朱印料含めず)
サイズ:16cm×11cm
当社の前を通過する江ノ電がデザインされた鎌倉らしい1冊。踏切の外から境内を見つめる看板ねこがかわいらしい。
明日から10連休ですね。
— 鎌倉 御霊神社 (@gongoro_jinja) April 26, 2019
御霊神社では明日より、新しい授与品が3種類頒布開始致します。
・御守2種(江ノ電、紫陽花)
・勝守(新デザイン)
お初穂料は各500円です。
また、この時期恒例の紫陽花柄の御朱印帳カバーも明日より頒布致します。
皆様の御参拝をお待ちしております。 pic.twitter.com/AxzVRpNctq
境内案内
父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。
16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉 - 寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。
長治年間(1104年 - 1106年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。
子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。
なお1895年(明治28年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められたが、実在の鎌倉景政からその名を借りただけである。
・本覚寺ー夷尊神・長谷寺ー大黒天・宝戒寺ー毘沙門天・江島神社ー弁財天・旗上弁財天社(鶴岡八幡宮)ー弁財天・浄智寺ー布袋尊・御霊神社ー福禄寿・妙隆寺ー寿老人
参拝を終えて
江ノ電沿線にひっそりと佇む古社。それでも知名度は高く、鎌倉の観光の定番スポットとして多くの観光客が訪れている。鎌倉幕府誕生よりも前から鎮座しており、歴史の長さを感じさせる境内が印象的だった。
なお余談になるが、当社に続く道の途中には有名な「力餅屋」があり絶品であるので、ぜひ参拝の際には立ち寄って頂きたい。
地図