西御門白旗神社/神奈川県鎌倉市 | Goshuinnistの神社巡り

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ご訪問いただきありがとうございます。神社巡りが趣味の大学生です。有名な大社から地元の鎮守さままで、訪れた神社を紹介しています。情報は筆者が参拝した当時のものです。週1~2回、基本的に19:00更新です。

 

基本情報

神社名:西御門白旗神社

御祭神:源頼朝

社格等:ー

鎮座地:神奈川県鎌倉市西御門2-1-24

最寄駅:鎌倉駅

駐車場:なし

御朱印受付時間:正月三が日のみ

公式サイト:ー

 

御由緒

この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。

正治元年(1199)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。

その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け、明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。

現在の社殿は明治維新百周年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。

境内の掲示より

 

御朱印

初穂料:300円

※正月三が日のみ頒布

平成31年 正月
 

境内案内

鎌倉宮や荏柄天神社からもほど近く、普段なら通り過ぎてしまいそうな位置に鎮座。一見するとこの辺りの鎮守様のようにも思える。
 
神社左手には『法華堂蹟』と刻まれた石碑。
 
法華堂蹟
堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル建保五年五月和田義盛叛シテ大ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ処ナリ寶洽元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殿ニ染メシ處トス
大正十三年三月建 鎌倉町青年團
境内石碑より。一部を新字体に改めた。
 
由緒には「頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ」とあることからもともと当社は寺院であったことが分かる。昭和56年に刊行された『神奈川県神社誌』には以下のように記されている。
 
 この地に源頼朝公の墓所を守る法華寺があが、その霊を祀っていたが、明治初年の神仏分離令施行に伴い法華堂は撤去され、明治五年十月白旗神社が建立され、頼朝公の神霊を奉斎したのが始めである。
 法華堂は頼朝公生前の持仏堂で、その創建は頼朝公奥州入りの文治五年(一一八九)八月八日、専光坊により立柱式が執り行われた事が『吾妻鏡』に見える。頼朝公の死後はその墓堂となり、本尊に正観音像(髻観音)が安置されていた。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮、勝長寿院(源氏の氏寺)と共に三大寺として尊崇した。足利時代以降衰微し、江戸時代には鶴岡供僧相承院が兼務し、明治に入りて前述の如き当社の濫觴に至る。
 然しながら頼朝公を白旗大明神として祀ったのは相当古く、応安六年(一三七三)十一月十五日西御門の報恩寺(廃寺)境内に洞が祀られていたと記録にある。
明治に建立された当社は、その後関東大震災による修覆があり、昭和四十五年には頼朝公報恩会の発願により現在の如き結構をみた。元無格社で雪ノ下区の氏神社であり、石段上には鎌倉石の多層塔に改められた頼朝公の墓があり参詣者も多い。
『神奈川県神社誌』より
 
つまり、元々源頼朝の持仏堂であったが、頼朝公の死後「法華堂」として相承院の管理下に置かれ、明治維新後に「白旗神社」に改称したという変わった歴史を持つ神社であることが分かる。
 
こぢんまりとした社殿はきれいに保たれており、地域から大切にされている神社だと感じる。
 
扁額には『白旗明神』と金の文字があしらわれており、源頼朝公が祀られていることを暗示しているかのようである。
 
 時代を感じる由緒記だが、きれいに保たれており、ありがたい。
 
神社右奥には源頼朝公と北条義時の墓所へ繋がる階段。
 
階段を上りきると目の前には源頼朝公の墓。地元の有志の方によってだろうか、花が手向けられており、現在でも崇敬の念が篤いことを窺わせる。
 

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
Wikimedia Commons より引用
 

源頼朝

清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。

Wikipedia 源頼朝 より引用

 

承久記絵巻 巻第2に描かれた北条義時の肖像
Wikimedia Commons より引用
 

北条義時

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。

1219年に、源氏将軍が断絶すると、得宗の義時が鎌倉幕府の実質的な指導者となった。幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)を廃した(承久の乱)。

Wikipedia 北条義時 より引用。一部の表記を改めた。

 
その隣には源頼朝とその兄弟との関係が窺い知れる土と石も置かれている。
 
 
希義公の土と石
 父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱(1159年)」のおり、平家型に捕縛された兄頼朝は当時13才、同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今日に至っています。
 公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を思い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再会させたものです。
平成6年(1994年)9月25日
源頼朝公報恩会
源頼朝公顕彰会
墓前の掲示より。一部表記を改めた。
 
源希義
平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。
Wikipedia 源希義 より
 
ここまで参拝する人はなかなか見かけないが、このように石碑が建てられており、この地が鎌倉幕府の起源があったことが確かに刻まれている。
 
神社より少し東の方角には北条義時の法華堂もあり、広々とした敷地が幕府が在りし日が偲ばれる。
 
 
法華堂蹟と同じ位置には鎌倉幕府にゆかりのある人物の墓もある。向かって左手の墓は大江広元の四男で、戦国時代に西国の覇者となった毛利氏の祖となる毛利季光のもの。右手のものは鎌倉幕府の頭脳となって活躍した、文官の大江広元の墓所。
 

大庭学僊筆『大江広元像』(毛利博物館所蔵)
Wikimedia Commons より引用
 
大江広元
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。源頼朝の先祖源義家に軍略を教えた大江匡房の曾孫である。
Wikipedia 大江広元 より引用。一部の表記を改めた。
 
こちらの墓は源頼朝の子とも伝えられる島津忠久のもの。
 

武将像 伝島津忠久画像(尚古集成館所蔵)
Wikimedia Commons より引用
 
島津忠久
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。本姓は惟宗氏で惟宗忠久(これむね の ただひさ)、また後年には藤原氏も称した。出自・生年については諸説ある。
Wikipedia 島津忠久 より
 

参拝を終えて

筆者は鎌倉に何度も足を運んだことがあるが、当社の存在は知らなかった。しかし、参拝して歴史を見てみると、よくある鎮守とは大きく異なった特徴を持っており興味が惹かれた。当社の近くには幕府の跡地や、幕府で活躍した人物の墓が点在しており、歴史マニアである筆者にとってはとても居心地が良く学びの深い参拝となった。

 

地図

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