耳の話 その23 国立時代(9) | 小迫良成の【歌ブログ】

小迫良成の【歌ブログ】

「唱歌是生活的乐趣(歌は人生の喜び)」
「有歌声的生活(歌と共に歩む人生)」
 この言葉を心の銘と刻み込み
 歌の世界に生きてきた
 或る音楽家の心の記憶

海野事件の余波を受けて

須賀先生の個人レッスンが禁止され、

代替として須賀先生門下で

尚美受験科の声楽主任だった

萩野昌良先生に預けられた私は、

そこで同じく藝大受験生の

経種廉彦君と出会う。

 

当時の彼はバリトンで、

ちょっとユニークな歌唱スタイルが

妙に印象に残る子だった。

 

年齢は私より1つ下、

ただし、この世界において

プラスマイナス5年は

事実上の「同世代」となるため、

年齢や学年による上下の意識はない。

 

彼のユニークな歌唱スタイル、

それは本来彼が持っている明るめの声に

覆い被さるような暗めの響きをつけて、

その「明」と「暗」を使い分けながら

曲のラインを作っていくことにあった。

 

共鳴腔である鼻腔を

十分に鳴らせつつ

鼻の下をちょいと伸ばして

下向きに響きを加えていく

…という感じだろうか。

 

本人にその意識があったのかどうかは

直接訊ねたことがないので判らないが、

こうして得られた音色は楽器として面白く、

「へえ、面白いことやってるな。」

というのが正直な感想だった。

 

「作り声か、本来の持ち声か」

と問われるならば、

確かに「作り声」に属する声であろう。

 

しかし、非常に細密に練られており、

「この声だからこそできる表現」

というものについても

既にこの時点で掘り当てていて、

味わいのある歌唱スタイルになっている。

 

普通ならば、

本来の声ではない「作り声」で

歌い続けていると、

直ぐに破綻がくるものなのだが、

彼の場合は微塵も破綻を感じさせない。

 

…そう、

経種廉彦という

まだ二十歳にもならぬ男は、

既に自身の歌唱スタイルを

「芸」の域にまで練り上げていたのだ。

 

その年の3月、

藝大受験までの短い間ではあったが、

私は彼の歌唱スタイルと

そのスタイルを貫いて歌われる

オペラアリアや歌曲に夢中になった。

 

「魅せられた」と言っていい。

 

 

翻って私自身を見ると、

この時の私は

まだ歌唱において

如何なるスタイルもなければ

如何なる好みや拘りも

持ち合わせてはいない。

 

…というより、

そうしたことを

意識したことすらなかった。

 

大学のレッスンで、

また個人レッスンで、

あるいは合唱の授業などで、

与えられた曲を

自身の身体や心と照らし合わせて

吟味することもなく、

ただ言われるがままに

歌っていただけだった。

 

この時、私が藝大入試用に

レッスンを受けていた曲は

ドニゼッティ《ラ・ファヴォリータ》の

"A tanto amor"というアリア。

 

嫌いな曲ではなかったが

特段好きという訳でもなく、

歌詞の意味もストーリー上の情景も

知識として把握はしていたものの、

リアルな実感もなければ

表現に対する

「こうしたい」「こう歌いたい」

という強い意志すら

持ってはいなかった。

 

「これを歌え」と

課題が与えられたから歌う。

 

藝大受験を

須賀先生の誘われるがままに、

その実感も意志も伴わずに

受けようとしていたのと同じである。

 

国立音大での最初の1年、

学校の中で斜に構えながらも、

隠れて藝大受験という名目で

個人レッスンを受けながらも、

どこか、のほほんと

「このまま国立を4年か5年で

 なんとなく卒業するのだろうな」

と考えていたのが

嘘偽りのない当時の私だった。

 

「己のスタイルを持つということ」

 

「歌唱・演奏において

 そのスタイルを貫き通すということ」

 

それを行うことで、これほどまでの

「魅せる」演奏が行えるということを、

経種君は私に、言葉ではなく

その歌唱でもって教えてくれたのだ。

 

その年の3月、経種君は藝大に合格し

私は二次の実技試験で失格した。

 

敗因は明らかで

何らの拘りも興味も持たぬ曲を、

言われるがままに

自らの表現意志すら持たずに演奏してしまった

(かつ、それを認識してしまった)

私の自滅である。

 

二次試験の歌唱が終わった後、

試験会場となったホールから

廊下に出る間の短い4段ほどの階段で

私はよろけてしまい、

壁に身体をぶつけたのを

今でもはっきりと覚えている。

 

それほどまでに私は

打ちのめされていた。

 

おそらく私は

経種君と出会い

彼の歌唱に触れたことで

初めて演奏というものを

リアルに実感し、

これまで惰性で行っていた藝大受験を

初めてリアルなものとして

実感したのだろう。

 

そして、

その年の受験で彼が合格し

私が二次で自滅したこと…

 

ただ彼と私の違いを痛感し

打ちのめされただけでなく、

どこかに冷静な自分がいて

彼と私の立ち位置を推し測り

「決して手の届かぬ距離ではない」

ということを実感していたこと…

 

そのふたつが私をして、

本気で彼を追い

本気で藝大に進む決心をさせたとも言える。

 

その意味において彼・経種廉彦君は

私にとってかけがえのない人物であった。

 

 

2014年、

オペラ歌手としては若過ぎる52歳で早逝。

 

心からの感謝と共に、冥福を祈る。

 

※写真は83年4月、須賀先生宅での須賀クラス歓迎会より。

 写真中央が経種廉彦君、右端が私。