さて、
海野事件の余波を受け
江古田の須賀先生宅に
出入りしていた門下生たちは、
藝大受験を間際に控えた時期に
レッスン中止を申し渡されることになった。
楽器輸入業者の逮捕が81年の12月1日、
海野義雄の逮捕が同年同月8日なので、
藝大からの「学外個人レッスン禁止」の
通達が出されたのは12月後半か
1月早々の事ではなかったかと思う。
(前後の経緯を考えるとおそらく年内)
当時の須賀先生の個人レッスンは
1回につき1万円、
ただし受験生(=学生未満)ということで
1回7千円、月謝にして2万8千円を
月初めor先月終わりに支払っていたと記憶する。
その月のレッスン回数を消化する前に
レッスン中止となったため
差分が返却されるということで
私は少し喜んだ。
(心の声)
「しめた、これでまた数枚、
中古レコードを買い漁ることができる!」
しかし、そこは先生もさるもの、
現金での返却ではなく、
その年に出版した先生監修の
《イタリア歌曲集:正しい発音と解釈》
というカセットつき書籍(教則本?)の
現物支給となった。
(心の声)
「ずるっけー!!」
口にこそ出さなかったが、
どうやら私の不満は
顔に現れていたらしい。
すると先生は
「出血大サービスじゃ!
私のサイン入りにしてやろう」
…と、
本の裏表紙にサインと共に
「小迫義成君へ」と
一筆添えてくれた。
「先生…私の字、間違ってます」
「お、スマン、スマン!」
”義”の文字の上に”善”が添えられ、
それ以上文句を言うことも出来ず、
私は礼を言って本を受け取ることに…
ちなみに私の名前は「小迫良成」である。(涙)
こう書くと、まるで須賀先生が
極悪非道の悪徳教授のように見えるが、
──まあ実際、したたかな
食えない古狸タイプではあったが──
私にとっては敬愛するに足る、
とても良い先生であったことは
ここに記しておく。
この海野事件の一件でも
須賀先生自身の個人レッスンは
一旦中止となったものの、
これの代わりとして
当時の尚美高等音楽学院受験科の
声楽主任で須賀先生の弟子でもあった
萩野昌良先生が門下生を引き取り、
藝大受験までの短い間ではあるが
面倒を見てもらうことになった。
この萩野先生のレッスンにおいて
私は二人の受験生と出会うことになる。
一人は当時バリトンで
後にテノールに転向した故・経種廉彦、
もう一人は当時まだ高2で
冬期講習か何かで上京していた
バスの妻屋秀和である。
(続)
※写真は82年1月、国立音大1年次実技試験の終了後、
級友の馬場君宅で飲み会をした時のスナップ。
伴奏は私にオペラとLPの世界を教えてくれた菅原君。