耳の話 その7 耳を腐らせないために | 小迫良成の【歌ブログ】

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「唱歌是生活的乐趣(歌は人生の喜び)」
「有歌声的生活(歌と共に歩む人生)」
 この言葉を心の銘と刻み込み
 歌の世界に生きてきた
 或る音楽家の心の記憶

「声の話 その13」で述べたように

人の声を楽器と見立てるならば、
あらかじめ音階に合わせて調弦された
鍵盤楽器の「ピアノ」ではなく、
音階が刻まれていない指板に
指を当てて音階を作り出していく
弦楽器の「バイオリン」に、
より近い存在となる。

 

それは

「弦楽奏者並に

 ピッチの微調整を可能とする

 発声のテクニックと

 細かな音の差を聞き分ける

 耳が必要である」

ということと同義でもある。

 

「良い声を出す」

「遠くまで大きく響く声を出す」

 

それが発声法の主目的だと

考える者が多い昨今だが、

発声の目的は単に

「良い音色」「響く声」「声量」を

出すことではない。

 

「それらの全てを

 正確なるピッチ調整の中で行う」

 

これが発声によって為されなければ

その行きつく先は「音痴な歌手」であり、

コントロールの効かない

「声の暴走族」でしかない。

 

では

その正確なるピッチ調整を

音色や響きを損なうことなく行い

音量の増減によってブレたりせぬよう

安定して声を出すには何が必要か?

 

「姿勢」でもなければ

「呼吸」でもなく、

「力の入れ加減」ですらない。

 

それらはあくまで

アウトプットのためのもの。

 

ピッチのみならず

音色にせよ響きにせよ音量にせよ

あらゆるアウトプットの

微調整を行うためには

「インプットの精度」こそが必要なのだ。

 

それが「耳」。

 

繰り返し、何度でも言うが

「耳」なくして

あらゆるアウトプットは

ただ空しいだけである。

 

嘘だと思うなら

耳を塞いで声を出してみるといい。

 

身体の記憶(経験知)だけで

まともな音程が出せるかどうか、

まともな音色や響きがだせるかどうか。

 

耳を塞いで歌い、

その歌を録音して

聴き返してみれば直ぐに判る筈。

 

 

「耳の精度を上げること」

 

だが、

人は環境に慣れる生き物であり

その順応性の高さは侮れない。

 

良い意味でも、

そして悪い意味においても。

 

ノイジーな環境下で

アバウトな歌唱が許される場所に

自身の身を置き続けたら、

自分にそのつもりがなくとも

その環境に身体が順応してしまう。

 

それは「耳」においても同じこと。

 

耳は常に意識して

磨き続けていかない限り、

いとも簡単に環境に順応し

いとも簡単に

劣化していくものなのだ。

 

「耳を腐らせない」

 

イージーな環境に

自分の耳が順応していないかどうか

常に用心深く気を配り、

必要とあればその環境を遠ざけ

耳の精度の回復に全力を注ぐ。

 

自身の耳を鍛えうるだけの

価値のある演奏に耳を傾け、

「自身の耳の肥やしにならぬ」

と判断した演奏には

どれだけ義理や利害関係があろうと

決して耳を向けたりしない。

 

「耳を腐らせない」

 

そのためには

 

「耳が腐りそうな演奏には

 決して近づかない」

 

「耳が腐りそうな環境には

 決して身を置かない」

 

「常に耳を磨き鍛えることを考え

 その糧となる音楽・演奏を

 常に求め続ける」

 

これに尽きる。

 

これを貫けるか否か、

そこから先は

本人の覚悟次第かな。