前衛としてありつづけようとして、創刊2号ではやくも矛盾を抱えはじめた「列島」。 | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

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  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

 

ニコニコ 「列島」(詩と詩論)は、「荒地」と並ぶ戦後詩における重要な詩誌です。しかし、この二つの紙誌の性格は大きく異なります。

 「荒地」が戦争と敗戦を経験した若き詩人たちが、戦後日本の荒野に立ちすくんで、なおかつ自らの詩情を叫びにも似た形で詩に託したことに比べて、「列島」はきわめて政治的でかつ「前衛的」(この「前衛」は政治指導的という意味、アバンギャルド芸術ではありません)でした。

 

 「列島」の政治性については、先週に触れましたが、創刊時(創刊号は1952年3月)の「列島」は、詩誌というより、むしろ政治宣伝誌(プロパガンダ誌)の趣がありました。日本が全体主義ファシズムから「敗戦」という形で解放された後、「列島」の創刊者たち(多くは戦前・戦中に弾圧されていたか?)は、これを政治(革命)の季節ととらえ、また当時全世界を席巻する社会主義革命(この用語は使用するにあたって要注意ですが)のうねりに自らを投じていました。それは当時の「正しさ」であったのだと思います(まだ、スターリンによる革命闘士大量粛正と人民弾圧の正確な情報は知られていません)。

 

 

ニヤリ しかし、「列島」第2号(1952年5月)編集後記では、はやくもこの雑誌の抱える矛盾が述べられています。関根弘は述べます。

--「列島」創刊号に対する世評は一般に手厳しいものであった。野間宏の巻頭言に作品はみな背を向けているというのである。(以下略)

--。

 野間宏の巻頭言とは「新しい日本の詩の秩序、民族の思想の中軸をつくりあげるために全力を尽くそう」という前衛思想的なものです。これに対して掲載されていた詩や詩論が「背を向けている」? いまの時代に読めば、けっしてそうは思えない作品ばかりですが、当時の「日本革命の」方向性=前衛党による方針からは外れていたのかもしれません。でも、「詩」とは基本的に反逆的なもので、全体性からの自由を求めるものです。「背を向けている」って言われても・・・。

 

 「列島」2号は「風刺」を特集して取り上げています。資本主義社会に対する「風刺」です。詩の政治的役割として「風刺」が求められたのかもしれません。作品はしかし全体的に低調。一方、この2号から全国から多くの詩が投稿されるようになります。戦後は詩が生きる場所(詩人が詩を世に出す場所)を求めていたのです。

 

ニヤリ 列島3号は1952年9月に発行されます。特集は「ぼくらの政治詩集」そして座談会は「国民詩とはなにか」です。相変わらず政治指導性を強く感じますが・・・

 

 おや?と思うのは山之口貘の「影」という詩が掲載されていること。そして全体的に詩に「叙情」が見え始めているということです。そして全国からの詩の投稿は活発です。

 

 山之口獏は沖縄の詩人で、その作風は風刺的で「無産者」的ではあるものの、けっして前衛的なものではありません。しかし、「列島」にこの詩が忍び込むように掲載されています。

 

 「列島」は変わり始めたのかもしれません。

 

  この3号に「列島」の中心的詩人の木島始は、特集「ぼくらの政治詩集」に応えて「一九四五年の夏-出発点を振り返る」という詩を発表します。

 

 (前略)

 あの日

 突如として

 異常な舞台の

 心理操作はきえさって

 歴史の姿は

 あかるみにでた

 

 だがあゝ

 目隠しされていたことさえ

 わからなかったほど

 いまいましい過去の追憶はない。

 

ニヤリ 全体主義を告発するも、そこで無力であった作者の葛藤が現れた作品です。

 

☆写真は1950年代後半の朝の通勤・通学時間帯の福島駅周辺です。わが父が里帰りしたときに写したもののようです。駅裏広場はいつだって、シャッターを切るだけで「決定的瞬間」の場です。

 画像は、「列島」2号、3号の表紙と目次、そして「山之口貘」の「影」です。