父のこと | おとなの「個」育て  トパーズ ROOM

おとなの「個」育て  トパーズ ROOM

日々のつれづれ、ときにはアート。
キャラクトロジー®心理学を中心に、
気づきと癒しの自己探求をつづける、トパーズのブログです。

こんにちは。
父がすごすぎて、険しくて、
そこですっかり誤認を育ててしまったトパーズです。

昨日、9月29日は父の命日でした。
父が93歳で亡くなって7年がたちました。
生きていたら100歳だったんだなあ、と感慨深いです。
今日は、誤認が解けた「今の私から見た、父」のことを書きます。
 

父のことを、私は長い間「怖くて煙たい、頑固な人」だと決めて、
どう接したらいいかわからないまま、
物理的にも心理的にも距離を取り、いきていました。

父の晩年近く、私は夫との別居の事実を、
なかなか明かすことができなくて、

「〇〇君は、どうだ。元気にやっているか?」と言われるたび
あいまいにごまかすしかできなかったのです。

彼がウツを患い、色々あって数か月入院した経緯もあり
父は、ことのほか彼のことを気にかけてくれていました。
でも「仕事のストレスがウツの原因」と思っている父に、
「わたしや家族とのかかわりが、ストレスとなってのウツ」

「複雑な人間関係のタスクが、負担となっての逃避行動」
と話してしまったら、彼はどんなに弱い奴と呆れられるだろう、
そんな家庭を作ってしまった私は、きっと怒られるに違いない・・・

私は40代後半のいい歳になっても
「ちゃんとできなかった私」が、ばれてしまって怒られる!と思い、
父に本当のことが言えないという、子どもの意識のままでした。


とても気の重い告白として、
父に隠していた、夫との別居のいきさつを明かしたとき、
父がしみじみと口にしたのは、

「人は、変わるために出会う」という言葉でした。

あの父が?!
頑固に自分を貫くせいで、母はへとへとだったじゃないか!
父の中に、神様が入って伝えてくれた言葉じゃないのか?
大真面目に、そう思いました。

父の死後、結局願ったような結論には至れなかったけれど
父のその言葉は、折に触れ、私を支えてくれました。

私の目に映る父と言うのは、「正しさを求めるひと」でした。

間違ったことが大嫌いで、怠けごころが嫌いで、
「だから、怠けたい、間違いだらけの私は 嫌われる」と

思いこんでいたのですが、

父はもしかすると

「自分の中の過ちや、怠けたい心と、戦っていた」のかも。

だから、私もそうしなければならぬ、と勝手に学んだわけですが、

父のような厳しい生き方を、通す時代でもないのです。
周りから見たら、「立派だなあ、だけど俺にはできないわ」と
父に関わる人に劣等感を呼び出すような存在と見えました。

今だって、「きっと、父は孤高の人なんだ」と、尊敬の思いで
自分の父親を「特別な存在として」形容してみるけれど、
「孤高の人になって、特別になろう」としたわけではない。
それどころか、地域のおじさんたち、次の世代に
農業のこと、社会のこと、いつも話して聞かせて
煙たがられていたのがいつの間にか頼りにされていた。

家族に知らないところでは「ユーモアのある面白いじいさん」

だと思われていたらしいことも、後年知りました。
 

たまたま、父は父のようにしか生きられなかったし、
それで「よかったこと」も「苦しかったこと」もあっただろうけれど、
父はその自分であることを、偉ぶるでも、後悔するのでもなく
自分であることを、ただ全うしただけなんですね。


あの日、父が青く高く晴れ渡った空に向かって
煙となって登っていったとき
きょうだいそろって、しみじみと

「父さんって、怖くて近寄れなかったものね」といいあいました。
生前は、煙たい頑固な父からうけた
「被害」をああだこうだと共有しあって、結束した私たち。
父を送った後の、穏やかな秋の日差しの中では
実はユーモアがあったり、子煩悩だったりな側面を
一人ひとりの記憶の奥から取り出して
「え~、しらなかった!そんなことあったんだ」と分かち合いました。

私は、父の5番目の子どもとして生まれ、
父を煙たいと思うばかりで、心を開いて語ったことがなく、
なるべく、なるべく、父のエネルギーに触れないように
「私はちゃんとやってます、文句言われたくないです」
「私はあなたの援助を求めません」と、父の前では殊更に

キャラクトロジーで言う「リジット」のディフェンスそのものでした。

でも
「人は、変わるために出あう」

出会いの中で、エネルギーを交換し合い、

互いの存在をいとおしむ。
父が残してくれた言葉は
私が学んだヒーラーシップともつながるように思えて

これを書き残したいな、と思いました。
改めて、私はこの父とあの母とを選んで
生まれてきたのだな、と思う今日です。


これは、転勤先の海辺の町をたずねて来てくれた父と
当時2歳の娘の写真です。