つよがり リジ子さんの誤認 | おとなの「個」育て  トパーズ ROOM

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日々のつれづれ、ときにはアート。
キャラクトロジー®心理学を中心に、
気づきと癒しの自己探求をつづける、トパーズのブログです。

昨日は、周囲を信頼しながらいってみよう、と思い。

自分を責めて見せることは、信頼していない姿だな~と思い。
今日は自分の「あれ」と思う場所までおりて、責めずに見てみようと思い。
このブログで語ってみる、という目的のおかげで行けたことをかきますね。


サイコなちびまりこが、自分を強く大きく見せたがるので
私はしばしば感情的反応を起こします。
でも、ひょっとすると「サイコちゃん」と言うより
やっぱり「リジット多めのリジ子ちゃん」かしら。

私は、子どものころからほどほど褒められる優等生です。

でも「本当の私は、そんなものじゃありません」と思う。
いつも内面で起きる感情的反応は、むしろ
「本当の私はほめられたものじゃないのに」という、落ち着かなさです。

また自分をちょっと強く大きく見せちゃったぞ!と思うたびに
どういうわけか、50年間にわたって、頭に浮かび続ける光景があります。

小学校1年生の時の、作文の場面です。
ある日、作文の時間に書くことが思い浮かばなくて
日常の手伝い(薪運び)の場面を脚色して書いたことがあります。
私の日常に、先生に伝えたいような「たのしいこと」なんか何もないわけで。




「私はこんなにいい子だよ、いいことがあったよ」と書くのが作文で
先生というのはそういう作文を書く子が大好き、と思っていた私。
担任の「〇やましずこせんせい」は、

短大を出たばかりの20歳?21歳のおねえさんで、
40代後半の土まみれの母とはえらい違いなのに、「お母さん」を転移。
先生にかわいがられる「素直で明るいかわいいこ」になりたかったのかな。

その時の作文は
「昨日」「薪を運ぼうとしたときに」「薪が崩れて」「猫にぶつかりました」「ねこが、にゃっと鳴きました」程度の話。
事実は「薪運びなんか嫌いだけど、私の役目だから薪運びします」です。
当時我が家は薪ストーブで、夏だろうが、ストーブが煮炊きのメイン。
薪小屋から玄関のたたきに薪を運び込んでおくのが、私のお手伝いでした。

ところが、この作文を「参観日に読み上げる」ことになってしまった。
忙しいから、親が参観日に来るなど、想定外だったのに、来た。
私の「薪がくずれて、ネコに当たりそうになったことなんて嘘」なわけで
作文にウソを書いたことが、ばれちゃう!!と、脳内総動員!!

その結果「昨日」(読むときには、既に、「昨日」じゃないのに)を
「去年」に置き換えたという…どう考えても「不自然な作文の出来上がり」。
誰も知らない、見てない「私一人で、立ち会った、薪運びの場面」なのに
ウソをかいた、ことを、さらにウソで覆って、おかしなことになった焦り。
そして「昨日」だろうが「去年」に改ざんしようが、誰も気にしなかったし。
あれはなんだったんだ、ばかみたい・・・

今まで、この「作文改ざん事件」が浮かぶたびに

「じぶんは、わるいこだ」と、繰り返し思えてしまうので、

その場面を深く感じないで、押しのけることにしていました。

でも、ここまで繰り返し思い出すということは、

ここには何か大事なことが隠れていて、記憶の奥から呼ばれてる気がする。
SASはじめ、キャラクトロジー®心理学のアプローチは、ここが肝です。

こうして、ブログ記事にしようとあの場面を書き、読み手に回ったとき
「ねえ、本当は薪小屋に入るのが、怖かったよね?」と思い出しました。

薪が崩れて、ネコにぶつかる場面は、「私がそうなるのが怖い」だった。
別に、無茶苦茶な積み方がされているわけじゃなく、

「小さい私には、危なく思えて、こわかった」のだな、と。
何より、薪を作るために、
回転のこで太い木を切り分けていく時、まさかりを振り下ろす時、

薪小屋の前で父がする作業は本当に真剣で、薪はそうして出来上がっている。
それらひとつひとつは、私には関係がないし、
「薪運びの作文改ざん」とは全く関係ないのですが、
私はそれらの作業全体に「緊張と恐怖」を感じていたと思い出すのです。

「こわいからやめてほしい」と、言えることではないし
私が怖いと感じることを、たぶん誰も気に留めない
気に留めたところで、誰もそれに応えてあげることはできない。
私は「こわいと感じた」ことを感じないことが「正解なのだ」だと考えた。

誰かが掬い取ってくれなかったからと言って、「感じた」はあってよいのに
私はここで「感じたことを、無かったことにしていた」代わりに、
「私が薪を運ぼうとしたら、崩れて、ネコにぶつかって、ネコは鳴いたよ」と
自分の代わりのお話を作って見せているように、感じられたのです。

 

「わたしね、あのおと、こわかったの」とか

「おとうさんがけがしたらどうしようってこわかったの」とか
「わたしがヘンなとこからひきぬいてまきがころがるたび、くずれたらどうしよう

わたしがけがしてないたら、お母さんがお父さんにおこられる」とか
いろいろいろいろもやもや思っていて、誰にも話せなかった「不安」が、
あの短い作文の背景から思い出されていくのでした。

幼い私の、幼いながらの思慮と、うそ作文。
私はてっきり「猫にぶつかった」という演出で注目を取ろうとするかに思い
自分、ろくなもんじゃないな、と思い続けていたのですが、
不安で安全じゃないと感じた自分を隠すことが私なりの愛情表現で、

そうすれば「愛される」と期待しては「見事に不発」。
愛を得られなかったのは「私が悪い子だからだ」と学習したパターンの原点?

責めるより、わかってあげられた今があって、よかったねと思う。


そうか~。
私がもし、強がって、平気そうな顔で、「状況を語りだした」ときは
きっと内側に、不安があるんですね。
冷静すぎて、きっと誰も気づいてくれないとしても、私が知っておく。
ときには、それを、誰かに話して「今、不安なんだね」と返してもらおう。
私は私のトリセツに、これを書き添えておきます。