定期購読し続けているディアゴスティーニの『Gメン’75』DVDコレクションは4月上旬発売の最新号で第76号となり、それに収録されているものは1979年9月末から10月上旬までの、秋改編期の放送回となった。もう少し先になると、レギュラー出演している夏木マリの主題歌「ウィング」が番組のエンディングに掛かるようになる。これは出演している恩恵で番組が授けたというヌルい理由からではない。

 

番組が起死回生を図ってのことだ。今回の記事はそのことについて触れていきたい。

 

 

TBS『Gメン’75』は1975年5月の放送開始以来、土曜9時枠を制してきたのだが、1979年春改編期の4月から状況が一変してしまう。裏番組、日本テレビ「グランド劇場」枠で、水谷豊主演『熱中時代』(教師編 第1シリーズ)最終回の熱気をわずか8日後に持ち込んだ『熱中時代・刑事編』が開始されて、その視聴率は第1話から逆転。『熱中時代・刑事編』が視聴率20%台を常時記録し、『Gメン’75』はそれまでの平均視聴率よりも遥かに低い10%台前半、行っても10%半ばしか獲れない状況が続いていく。

 

「Gメン’75」を喰った水谷豊主演「熱中時代・刑事編」 | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

 

苦境の『Gメン’75』にとって戦える材料はひとつしかなかった。それは、この1979年春改編期、レギュラー刑事のメンバーチェンジで新たに加入してきた面子である。

 

まず、これを活かせたのか?を検証してみたい。

 

改編期である4月いっぱいかけて、倉田保昭、森マリア、藤木悠を段階的に降板させて、続く5月5日放送の第205話「新Gメン対ニセ白バイ警官」で、若手俳優の千葉裕、当時人気の草刈正雄を彷彿とさせるモデル出身の新人・有希俊彦、そして、「絹の靴下」などのヒット曲を持つ歌手・夏木マリの三人をいっぺんに加入させた。

 

子役からのキャリアがあり、青春ドラマで鳴らした千葉裕は、それまで『Gメン’75』が避けてきた『太陽にほえろ!』(制作:日本テレビ-東宝テレビ部)で謂うところの新米刑事にあてられた。猪突猛進、失敗また失敗、末っ子キャラ、まぁ、そういうかんじの。その上、登場回からパーソナリティも与えられて、鳥居恵子と遠藤真理子演じる美人姉妹と親しく、所轄署の白バイ警官時代、そして厳しい日々が続くGメンになってからも、彼女らが経営する喫茶店が心のオアシスという設定だ。

 

一方、有希俊彦演じる村井刑事は本庁SPというエリート部署出身かつクールキャラで、千葉裕演じる田口刑事とは対称的なんだけど、登場回以降は、ほとんどモブキャラになってしまう…。新人・有希俊彦に演技経験がなかったことは痛かった。『太陽にほえろ!』も無名の新人を新米刑事に起用し続け、それを番組の売りとしていたのだけど、そのほとんどが“演劇界の東大”と喩えられる文学座養成所出身、または類似の劇団養成所出身だから演技の基礎なりが出来てて、オーディションやテスト出演を経て起用される。なので、登場回から主演エピを立て続けに作っていくことが可能だったわけである。

 

おそらく、『Gメン'75』の番組スタッフは、庶民的で猪突猛進な田口刑事とエリート部署出身の、つまりはセレブキャラでクールな村井刑事を、刑事ドラマ「二人の事件簿」シリーズ(制作:朝日放送-大映テレビ)の素性が違う若手ライバル刑事どうしみたいな設定にしたかったに違いない。しかしながら、村井刑事を演じる有希俊彦に演技の素養がなかったことから、番組スタッフは彼の主演エピを作らなかったばかりか、育てることを早々に諦めて、ほとんどの回は、若林豪演じる立花警部からの命令に「はい」と受け答えする役目や、捜査報告の説明台詞を言うだけの存在にしてしまう。どういう事情があったのか定かではないが、有希俊彦は次の改編期である1979年秋改編期で早くも降板してしまった。

 

たしかに、千葉裕と有希俊彦で、番組は最初から千葉裕のほうを推していたのだけど、そのカウンターである有希俊彦演じる村井刑事の存在がまったく機能しなかったことから、この期間で番組スタッフが想定していた千葉裕演じる田口刑事のキャラが放つ魅力は半分も出せなかったかと思う。もしも…の話として、演技が出来る俳優が演じた村井刑事だったのならば、田口 vs 村井のライバルキャラ対決は、その新鮮さで、マンネリをそろそろ気になりだす、番組開始5年目を迎えた『Gメン’75』にとって大いなる軸となっていっただろう。いや、もっと厳しく言えば、この『熱中時代・刑事編』襲来の大ピンチで番組が生まれ変わらなきゃいけない時期にそれが出来なかったことが、躓きの石となってしまったのは否めない。

 

田口・村井刑事の登場回「新Gメン対ニセ白バイ警官」

DVDコレクションでは印象的なその対立場面を表紙にした

 

さて、夏木マリである。歌手である。映画には端役で一度出たことはあるけれど、テレビドラマ初出演。しかし、当時の歌手といえば、歌謡番組でもバラエティ番組と境界線が付いてないものが多かったからコントに駆り出されたりして、まったく演技経験がないというわけはない。そつなくこなしていく。また、番組の売りである女性Gメンとしての失敗→怯え→克服→成長を定型ながら綴って、前任者二人にひけをとらない存在感を得ている。まずまずの成功を収めたと言えよう。

 

『熱中時代・刑事編』の放送期間は2クールで、1979年4月から10月まで続いた。驚くことに、最初から最後まで番組の勢いが落ちなかった。結果、逆襲しようにも『Gメン’75』が付け入る隙間さえ与えなかったのである。

 

物事には理由がある。では、『熱中時代・刑事編』の勢いが落ちなかった理由とはなにか?


それが、主演・水谷豊が歌唱する主題歌「カリフォルニア・コレクション」。

 

「カリフォルニア・コネクション」は『熱中時代・刑事編』の放送開始から2週間あまりの後、4月21日にシングル盤が発売。異常なまでの水谷豊人気とここまで二作続いた「熱中時代」シリーズの“フィーバー”でヒットしていき、売り上げ枚数65万枚の歴史に残る大ヒット曲となった。

 

ヒット曲となったからには、当時の音楽番組『ザ・ベストテン』にランキングされていく。

 

1979年8月2日、水谷豊「カリフォルニア・コネクション」がザ・ベストテンで連続1位を獲得 – ニッポン放送 NEWS ONLINE (1242.com)

 

当時を知らない人に『ザ・ベストテン』のあらましをなるべく簡潔に示したい。TBSが1978年1月より始めた、木曜日夜9時から生放送の歌謡番組で、番組タイトルの通り、そのときに流行っていた歌謡曲を第1位から第10位まで番組独自の集計方法(レコード売上げ、ラジオ番組と有線放送の順位、リクエストはがきの4要素)でランク付けして下位から発表する構成である。番組側で出演者を画一的に決めるのではなく、4要素の“世間の要望”によって視聴者側で出演者を決めることが当時の歌謡番組にとって画期的であった。いままでにないそれがウケたことにより、開始から瞬く間に視聴率30%を超す人気番組となり、放送翌日の金曜日は学校や職場でそのランキング、出演歌手への豪華なセット、司会者とのやりとりなどで話題が持ちきりだった。

 

『熱中時代・刑事編』と同じ1979年春改編期、4月開始のドラマに、この『ザ・ベストテン』を上手く利用したものがあった。

 

『ザ・ベストテン』の後時間帯、夜10時から同じTBSでやっていた「木曜座」枠の『愛と喝采と』(1979年4月~7月)である。芸能界の物語で、音楽プロダクションの女社長が、新人歌手の曲をヒットさせようと奔走する内容になっていて、その新人歌手の曲というのが、岸田敏志(当時・岸田智史)の「きみの朝」で、劇中で大フィーチャーされていた。番組開始一か月後の5月より、前時間帯の9時から放送している『ザ・ベストテン』で13週に渡ってランキングされ続けて、岸田も出演して歌唱したことにより、続く10時からの『愛と喝采と』は大ヒットとなった。

 

【1979年6月】きみの朝/ドラマか?現実か?岸田智史 同時進行で大ヒット― スポニチ Sponichi Annex 芸能

岸田敏志「『きみの朝』はドラマの脚本通りに大ヒットした!」 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] (smart-flash.jp)

 

「カリフォルニア・コネクション」も『ザ・ベストテン』へランキングされたことにより、ドラマの人気も当然上がっていったのだが、確信犯的な「きみの朝」とは事情が違ったし、もっと言えば想定外の出来事でもあった。

 

しかも、そのことが『熱中時代・刑事編』の裏番組『Gメン’75』を翻弄していく。

 

5月31日にランキングした「きみの朝」から遅れて7月12日に第9位で初登場した「カリフォルニア・コネクション」。しかし、番組に当の本人は出なかったのである。

 

その理由は主演ドラマ『熱中時代・刑事編』の収録中であったから。


ここで水谷豊の仕事に対するスタンスを示しておきたい。1974年秋改編期から翌1975年春改編期まで放送された『傷だらけの天使』(制作:日本テレビ-東宝テレビ部・渡辺企画)でブレイクした直後、その人気を受けて1975年秋改編期からともに半年間に渡って主要レギュラーで出演の、東京で撮影する『夜明けの刑事』(制作:TBS-大映テレビ)と京都で撮影する時代劇『影同心II』(制作:毎日放送-東映)に掛け持ち出演していたところ、休む暇なんてなかったその往復生活の忙しさで水谷は体調を崩してしまう。そのことから、続く1976年春改編期開始の主演ドラマ『火曜日のあいつ』(制作:TBS-東宝テレビ部)と主要レギュラー『ベルサイユのトラック姐ちゃん』(制作:NET-東映)のどちらも事前に降板する憂き目にあってしまい、3カ月にわたる休養生活も余儀なくされる。以後、その“トラウマ”がきっかけとなり、ドラマの掛け持ちをすることは控えて、代表作となった『熱中時代』(教師編・第1シリーズ)も、この『熱中時代・刑事編』もドラマ出演はこれ一本に絞っていた。

 

それから、歌手活動は俳優の余暇にやっているようなもので、人気者だからレコードは出すが、ライブも開かなければ、歌番組での歌唱もほとんどしなかった。1977年夏、わりと軽い気持ちで作れた初シングルを出した後、宇津井健とのW主演ドラマ『赤い激流』(制作:TBS-大映テレビ)をやっている際中、今度は初アルバムをレコーディングしていて、『水谷豊自伝』によれば、その機会に当時の名だたる音楽家と交流していく中で、自分が“音楽家としての歌手”へはなれないことを痛感したという。何度も歌って良いテイクの部分を編集しまくるレコーディングでそれなのだから、一発勝負でごまかしが効かない歌番組の歌唱ともなると馬脚を現すことになるのでなるべく避けていたのも頷ける。しかも、“トラウマ”の掛け持ち仕事にもなるし。よって、主演ドラマ『熱中時代・刑事編』をやっているときに、主題歌だからって「カリフォルニア・コネクション」を歌っていくことなんて微塵も考えなかったのだ。

 

それが、“世間の要望”によって、『ザ・ベストテン』にランキングされて呼ばれてしまったのだから、こんがらがる。『ザ・ベストテン』は港区赤坂にあるTBS本局のスタジオに来られない出演者に対して、日本全国どこへでも、はては海外からでも中継をして出演させる。しかしながら、毎週木曜日の夜は、神奈川県川崎市にある生田スタジオでドラマの収録真っ最中だった水谷豊は消極的であった。ランキング二週目の7月19日に出演して歌ったものの、次週からは再び出演しないか、出演しても「ドラマの収録が忙しいから歌う準備が出来てない」との理由で歌わなかった。それでも、レコードは売れ続け、ラジオ番組と有線放送の順位は上がり、順位を決める一番大きな要素のリクエストはがきは殺到して、とうとうランキング三週目の7月26日から8月16日まで4週に渡って第1位を獲得した。こうなると仕方なしに、連続第1位の最中、もう一回だけ出演して歌って、これが番組最後の歌唱となる。「気持ちの切り替えが出来ない」と『水谷豊自伝』にも記載されていたように、俳優活動中に無理してやっていた歌手の掛け持ちは、ここでこと切れてしまったのだ。

 

8月23日に第1位をゴダイゴ「銀河鉄道999」へ明け渡して第2位に甘んじるも9月13日まで4週もその位置にピタリと張り付いてはいたから、視聴者の興味は「カリフォルニア・コネクション」が第1位を奪回出来るのか?、そうしたらまた出てきて歌ってくれるのではないか?となっていて、水谷の心情をよそに番組は俄然盛り上がっていた。そんなこんなで、9月27日まで12週に渡ってランキングされ続けていく。『熱中時代・刑事編』は10月6日が最終回だったから充分にプロモーションとなったことだろう。

 

『熱中時代・刑事編』の裏番組『Gメン’75』はこの事態をどう捉えていたのだろう?、自局の看板番組であり、視聴率30%を超す『ザ・ベストテン』で「カリフォルニア・コレクション」と『熱中時代・刑事編』のことが連呼されていたのである。誰が見たって影響力は必至。とくに、生田スタジオまで中継しに行ったのに劇中の衣装を着た水谷豊は歌わない回なんて、視聴者はその飢餓感から「じゃあ、ドラマのほうを観てみよう」ということになる。

 

ザ・ベストテン(1979年8月2日放送)|音楽|TBSチャンネル - TBS

歌唱はしていないけど、その生田スタジオから中継での出演回

 

『Gメン’75』にとっては内憂外患に陥っていたのである。

 

1979年秋改編期、『Gメン’75』はレギュラー刑事のメンバーチェンジを再び行う。不発に終わった新人・有希俊彦を降ろして、TBS土曜9時枠アクションドラマのルーツである『キイハンター』にもセミレギュラーで出ていた経験を持ち、子供向けの特撮番組から時代劇まで幅広く活動していた宮内洋を替わりに入れた。さらにもうひとり、番組開始以来のレギュラーであった夏木陽介も降りて、キャリア的に匹敵する川津祐介を替わりに入れた。川津は『キイハンター』よりさらに前に、東映側プロデューサー・近藤照男が手掛けたアクションドラマ『スパイキャッチャーJ3』に主演した所縁も持っているなど、春改編期の未知数だった新加入メンバーとは打って変わって安全策を取って知古の者で固めていく。

 

ポジティブに捉えれば、名前と顔が知られ、アクションもこなせる布陣に強化したのだが、なんにせよ、観てもらわなければならないから、視聴率が10%も下がっていた番組の立て直しには、ある秘策を用いた。

 

 

それが冒頭で示した、春改編期からレギュラーとなっていた歌手・夏木マリに番組のエンディングで掛かる主題歌「ウィング」を担当させたことだ。

 

『Gメン’75』は1975年の番組開始以来、その主題歌は日本コロムビアのアーティストが担当してきたが、夏木マリが所属していたのはCBSソニー(現・ソニーミュージック)。さらに、それまで歴代の主題歌を手掛けていた、『Gメン’75』の世界観を作っていた監督・脚本家の佐藤純彌による作詞と『Gメン’75』の劇伴を担当していた菊池俊輔の作・編曲でもなく、伊達歩(伊集院静)の作詞、都倉俊一の作曲、荻田光雄の編曲といった、まさしく“ザ・歌謡曲”で迫った。

 

 

ここまで慣例を破ったのは、多分に『ザ・ベストテン』へのランキングを意識してのことだろう。「きみの朝」や「カリフォルニア・コネクション」が連動させた番組ヒットを夢見たことは想像に難くない。

 

しかし、『Gメン’75』だけがそれを狙っていたわけではない。1979年秋改編期、「きみの朝」と「カリフォルニア・コネクション」の成功を夢見たテレビドラマはゴマンと在り、というか、ほとんどがそれ狙いで、歌が唄える出演俳優たちに最先端の作家陣を誂えたり、直接的に名の知られた歌謡曲の歌手、または当時流行していたニューミュージックのアーティストたちによる売れ線狙いな曲をこぞって採用したのだ。

 

1979年秋、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で開始した青春ドラマ『体験時代』主題歌

 

 

 

ただ、それは狭き門であり、1979年秋改編期から1980年春改編期に入るまでテレビドラマ関連曲で『ザ・ベストテン』にランキングされたのは、郷ひろみの「マイレディー」、松坂慶子の「愛の水中花」、ゴダイゴの「ホーリー&ブライト」、そして海援隊の「贈る言葉」、このわずか4曲に過ぎない。

 

一曲ずつ説明すると、郷ひろみのは、そのタレント的な人気が絶頂期であり、すでに『ザ・ベストテン』常連でもあったからドラマ(TBS『家路~ママ・ドント・クライ』の挿入歌)とは関係なく入っていったもの。ゴダイゴのは、ヒットしたことはヒットしたが、逆にテレビドラマの事情に振り回された悲運の曲でもある。発売日は10月1日であったのに、採用された日本テレビ『西遊記II』の放送開始は11月11日からと連携が上手く取れなかった。その理由は、テレビ朝日が裏番組でその秋改編期一番の話題となっていた『西部警察』を10月14日から始めるにあたって、日本テレビは警戒してしまい、当初は同じ10月に番組開始させる予定を繰り越して(その間は前番組『俺たちは天使だ!』をダラダラと続ける)、鳴り物入りだった『西部警察』の話題性がなくなったころを見計らって11月にしてしまったことから、常にタイアップありきでシングル曲を出していたゴダイゴにとって肝心な初動を稼げなく、それまでの楽曲よりもヒットの度合は低くなってしまったのだ。

 

1979年秋、「西遊記Ⅱ」はなぜ話題にならなかったのか? | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

 

松坂慶子のは、「きみの朝」が採用された『愛と喝采と』の後番組で主演ドラマ『水中花』(1979年7月~10月)の主題歌。ヒットした前番組の余勢と当時絶頂だった松坂慶子とその相手役・近藤正臣の人気で「木曜座」枠で連続ヒットしていたのだが、7月1日発売の主題歌は1クールだったドラマの終盤となってから本格的に火が付きはじめ、『ザ・ベストテン』への出演はランキング外の「スポットライト」コーナーへ9月17日に出演したのを経て、ランキングしての出演は最終回から後の10月25日から。なお、松坂慶子の初ランキング出演時から慣例となるその記念のサイン帳が始まった。

 

海援隊のは、「きみの朝」を『愛と喝采と』で手掛けた柳井満プロデュースによる『3年B組金八先生』の主題歌。

 

TBSのドラマ制作部門に在籍していた、このドラマのプロデューサー・柳井満は『愛と喝采と』を成功させたことにより、TBSが日本テレビ『太陽にほえろ!』へ何を出しても対抗出来なかった“魔の金パチ(金曜8時枠)”に白羽の矢が立った。そして、1979年秋改編期に繰り出したのが、かの『3年B組金八先生』(1979年10月~1980年3月)である。そこでも『愛と喝采と』と同じ手法で、主演の武田鉄矢が属する海援隊が歌唱する主題歌「贈る言葉」を如何にヒットさせ、『ザ・ベストテン』にランキングさせることを画策したという。

 

テレビがくれた夢 柳井満|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS

 

ドラマは10月26日に開始し、「贈る言葉」も11月1日に発売と連携が取れてはいたものの、ヒットに火が付いたのは意外に遅くて翌年になってから。『ザ・ベストテン』へも1980年3月13日になってようやく初ランキングした。

 

まず、『3年B組金八先生』は、裏番組で強敵だった日本テレビ『太陽にほえろ!』に対して、先の『熱中時代・刑事編』vs『Gメン’75』みたいにいきなり視聴率が逆転するほどに最初から大ヒットしたわけではなくて、視聴率的には『3年B組金八先生』初回16.6% vs 同日の『太陽にほえろ』25.7%からジワジワと攻め上がり、半年間放送の折り返し地点、2クール目の1980年に入った年明けから視聴率を逆転していくようになった。「贈る言葉」への柳井プロデューサーが図ったプランもそれを含んでいて、短期決戦だった1クールの『愛と喝采と』から長丁場だった2クールの『3年B組金八先生』へは、主題歌「贈る言葉」をやみくもにヒットさせるのではなくて、どの時点でヒットに導くのかをあらかじめ計算して、ドラマが最高潮に盛り上がる頃となるはずの、番組が2クール目の終盤に入った3月、金八先生とともに右往左往していた生徒たちの進路問題が受験による進学や就職でようやく決まる頃からこの時期最大のイベント・卒業式を経ての大団円な最終回あたりまでにしたかったからだという。見事、3月にランキングしてきて、最終回前日放送で第1位を初獲得していった。

 

話を『Gメン’75』に戻そう。10月6日、日本テレビ「グランド劇場」枠『熱中時代・刑事編』は視聴率27.4%を獲って有終の美を飾り、その裏のTBS『Gメン’75』は16.5%に留まった。翌週からの「グランド劇場」枠は桃井かおり主演のホームコメディドラマ『ちょっとマイウェイ』が始まる。初回の視聴率は前番組『熱中時代・刑事編』から半減した12.8%で、その後も10%台前半そこそこでヒットしたとは言い難い数字が続いた。ならば、裏の『Gメン’75』は視聴率を獲り戻せたのか?と問われれば、そうではなかった…。『ちょっとマイウェイ』よりは獲れてはいたものの、以前とほとんど変わらない10%台半ばという不甲斐ない数字が続く。一度離れた視聴者がなかなか戻って来なかったのだ。それでもまぁ、徐々には持ち直していき、11月には19%台を記録し、ようやく12月15日放送の第237話「カーアクション強盗団」で3月以来久々の20%越え、21.9%を記録した。

 


 

夏木マリによる主題歌「ウィング」は10月21日発売で、番組への登場は夏木マリ主演エピとなった11月24日放送の第234話「女たちの拳銃泥棒」。次回を一回置いて、そこから夏木マリの番組降板間際、1980年3月1日放送の第248話まで三カ月に渡って採用されたのだが、結論から言うとこの方策は不発に終わる。たしかに視聴率が持ち直してきた時期でのタイミングが良い主題歌採用ではあったけれど、目標であったはずの『ザ・ベストテン』にランキングさせるほどのヒットは導けなかった。

 

1979年秋改編期からの半年間、土曜9時枠は日本テレビ『ちょっとマイウェイ』、TBS『Gメン’75』の他に、フジテレビは十朱幸代主演で三浦友和が相手役となったホームコメディドラマ『ご近所の星』、テレビ朝日では「土曜ワイド劇場」の単発サスペンスドラマ枠が放送三年目を迎えていて、どちらも視聴率が10%半ばだったから、『Gメン’75』がなんとかリードしている状況ではあったが、20%を毎週獲っている番組がないから膠着状態だとも捉えられる。だからこその『ザ・ベストテン』へのランキングは必須であった。局内のコネでも何でも使って『ザ・ベストテン』の番組内コーナーでランキング外の曲として歌唱出来る「今週のスポットライト」に出演させ、組織票と後ろ指さされてでもランキングさせていれば、埋没しかけた『Gメン’75』は再注目を浴びたはずである。

 

それは、鬼の居ぬ間ならぬ、水谷豊が居ぬ間だからこそ可能だった。

 

日本テレビ『ちょっとマイウェイ』は3月末で終わり、4月からの後番組は西田敏行主演『池中玄太80キロ』。西田は当時一番注目されていた俳優だったから「グランド劇場」史上最高傑作のドラマはこのキャスティングで話題を振りまいて、まずは上手く運んだ。それは視聴率にも表れて、初回から20%越えでそこから落ちることはなく、裏のTBS『Gメン’75』は20%前後に持ち直したところから再び10%台前半に落ちていく。そして、『池中玄太80キロ』は1クールで終わるも、7月からのその後番組が、待望の水谷豊主演『熱中時代』(教師編・第2シリーズ)。1980年7月5日の初回視聴率が34.1%、平均でも27.8%で、1981年春改編期に入るまで3クールも続いたことから『Gメン’75』の視聴率はまたもや低空飛行を強いられる。番組終了までまだしばらくあったものの、ここで『Gメン’75』は番組としての命運が尽きていく。