先日、俳優の古谷一行がお亡くなりになった。

 

金田一耕助シリーズや2時間サスペンスの「混浴露天風呂殺人事件」シリーズ、そして不倫の代名詞ともなった『金曜日の妻たち』なんかが当たり役だろうが、自分にとっては京都版ハングマンたる『京都マル秘指令 ザ新選組』や田村正和とのW主演だった『男たちによろしく』なんかが印象に残っている。加えてもう一本、自分としては気になる、不思議な魅力を持つ作品に主演している。

 

それが1981年4月からフジテレビ木曜9時枠で半年間放送された時代劇『江戸の用心棒』。

 

<時代劇名作選>『江戸の用心棒』|BSフジ (bsfuji.tv)


加山雄三主演の『江戸の旋風』など、1975年4月以来この枠で続いていた「江戸シリーズ」と銘打ったチャンバラ時代劇の七作目にあたる。で、この『江戸の用心棒』、かなり特異な制作体制の作品なのである。理由は、世にも珍しい“東宝が京都で作った時代劇”だから。

 

それまでの六作も全て東宝による制作なのだが、東宝が一次下請けだとすると、二次下請けになるその実制作は「ウルトラマン」シリーズの円谷プロダクションが担当して、撮影スタジオは東京都世田谷区の砧にある国際放映スタジオを使っていた。しかしながら、この七作目の『江戸の用心棒』は、東宝のほかに、映像京都も制作にクレジットが入っている。映像京都とは、旧大映京都撮影所のスタッフたちによる制作プロダクションで、実制作もそこが担当していることから、時代劇のメッカ、京都の太秦で撮られていたのだ。

 

映像京都は、フジテレビが大映と制作し始めた『木枯し紋次郎』(1972年放送)の際に、大映が倒産してその救済策で誕生した経緯を持つことから、とりわけフジテレビとは結びつきが強い。以降、勝プロダクション制作による勝新太郎主演「座頭市シリーズ」の実制作も手掛けていた。それが途切れたころに再び廻されたのが、この『江戸の用心棒』であった。

 

さて、“東宝が京都で作った時代劇”の東宝である。

 

東映は京都の太秦に東映京都撮影所と東京の大泉に東映東京撮影所があり、松竹は京都の太秦に松竹京都撮影所(1980年代当時の名称は、京都映画撮影所)とかつては神奈川の鎌倉に松竹大船撮影所があったように、大手の映画会社は東西に撮影所を持っていた。しかし、東宝は世田谷の砧に東宝撮影所があり、近隣には東宝ビルトや国際放映スタジオなど関連施設も多かった一方、関西方面では京都に撮影所を持たず、東宝ではなくて阪急の子会社として兵庫の宝塚に宝塚映画撮影所を持っていた。邦画全盛期、1950~1960年代のころは大規模な撮影所を建てて、東宝系で掛かる劇場用映画から黎明期のテレビ時代劇まで幅広く手掛けていたのだが、その直ぐ後に経営不振がたたって、制作規模、撮影所の規模自体までも大幅に縮小する。テレビの時代、すなわち1970年代になると、劇場用映画からはすでに撤退して、親会社・阪急グループのCMとその阪急グループが提供の30分ドラマ、いわゆる「阪急ドラマシリーズ」くらいしか細々と制作していなかった。1978年に一度だけ、京都の太秦界隈とも宝塚映画とも関りが深い大和新社という関西の老舗制作プロが入って宝塚映画で『お吟さま』という時代劇の劇場用映画を作って東宝系で掛けたのだが、普段作っている「阪急ドラマシリーズ」は時代劇ではなく、もっぱら現代劇であった。この『お吟さま』があるから全くというわけではないけれど、当時の東宝は関西においてほとんど時代劇を作っていなかったのである。

 

しかし、東宝と並んで映像京都も制作に入ってきたから、それが世にも珍しい“東宝が京都で作った時代劇”と相成った。

 

東宝は、クレジット上は同格でありながらも実質は二次下請け扱いであった映像京都に丸投げしていたわけではなく、「江戸シリーズ」おなじみのスタッフを派遣していた。監督では高瀬昌弘と児玉進、そして撮影技師(キャメラマン)として内海正治まで。本体の東宝撮影所や関連会社の国際放映スタジオがある世田谷の砧界隈くらいでしか仕事してなかった彼らが、すでに何十年も前からムラ社会が形成されている京都の太秦に乗り込んでいったのは恐れ入る。しかし、この『江戸の用心棒』が足がかりとなって、後年の1989年からは、かつて「江戸シリーズ」のプロデューサーだった市川久夫が携わり、映像京都の長・西岡善信が常務取締役となった京都映画で実制作を手掛けた大ヒット作「鬼平犯科帳」シリーズ(フジテレビ-松竹)にメイン級のスタッフで、その腕を振るうことになっていった。

 

古谷一行さんを偲ぶ朝 | 田中健オフィシャルブログ「Quenes」Powered by Ameba (ameblo.jp)

共演した『江戸の用心棒』について書いている。よく聞く話で、京都の撮影所は怖かったと感じたとか…。

 

制作体制の話はこれくらいにして『江戸の用心棒』を内容の面から述べていこう。時代劇作家の藤沢周平が書いた小説『用心棒日月抄』が原作となっている。1976年から『小説新潮』に連載されていたものを1978年に纏められて刊行された。さらに連載が続いていって、1980年には続巻の『孤剣 用心棒日月抄』が刊行されている。

 

1981年の『江戸の用心棒』は一巻目の『用心棒日月抄』を使っていて、それでいて最終回が原作とはだいぶ違う。江戸で用心棒を稼業に暮らしていた浪人の主人公・青江又八郎は元居た奥州高沢藩に武士の身分として晴れて戻れることになり、江戸に参じていた藩主の御伴として帰ることになっていたのだが、その集合時刻に間に合わなかったためにハナシはすべて御破算となり、また江戸で浪人を続けていくというものであった。

 

大団円と見せかけて、元の木阿弥。つまり、シリーズ化を狙っていたのではないかと勘繰る。しかしながら、後番組の杉良太郎主演『同心暁蘭之介』が一年続いた後、この木曜9時の時代劇枠自体が無くなってしまう。

 

当時の木曜9時といえば、TBSの歌謡番組『ザ・ベストテン』である。1978年1月の放送開始以来すぐに視聴率30%以上を毎週獲る超人気番組となっていった。視聴率30%以上とは、その時間帯の寡占状態を意味する。つまり、同時間枠の裏番組はナニをやってもダメで、日本テレビ系では準キー局の読売テレビが局制作で手掛けていた現代劇の連ドラをやっていたのだけれども、まったく視聴率を獲れなくなったことにより、1980年4月からは、続く10時枠の連ドラも一緒に廃止して、その二枠を繋げて2時間ドラマ枠の「木曜ゴールデンドラマ」に移行した。

 

フジテレビも事情は一緒で、固定客が着いているはずの時代劇であったこの枠でも『ザ・ベストテン』が開始されてからは視聴率10%前後という厳しい状態が続いていた。しかし、それ以上に当時のフジテレビ自体が危機的状況であって、TBS、日本テレビに大きく離された民放第3位という状態だったところ、その下の第4位であったテレビ朝日がモスクワオリンピック独占中継権を獲得して以来盛り上がりを見せたことから、せっつかれる格好で、月間の全日帯視聴率が第4位に落ちて入れ替わることも度々。このままだと「振り返れば、12チャンネル」の有り難くない称号はフジテレビのものに危うくなってしまうことから、切羽詰まった1980年に局を挙げての改革を断行する。翌年に名キャッチフレーズ「楽しくなければテレビじゃない!」を生み出す「昭和55年の大改革」と呼ばれるもので、たんに編成替えをするわけではなく、たいして面白くない番組ばかりやっていた元凶である、それまでの合理化で脆弱していた制作部門の待遇を見直して、彼らに作りたいものを作らせた。そして流行りの2時間ドラマは現代劇じゃなくて時代劇で挑むことになり、『江戸の用心棒』開始と同じ1981年春改編期、金曜8時から「時代劇スペシャル」という枠を新設することに。新天地を見つけた「江戸シリーズ」の局側スタッフはそちらへと移行したことから、木曜9時の時代劇枠は別のスタッフが請け負った次第。

 

新規に編成された枠で、しかも社内改革から生まれた期待の「時代劇スペシャル」に比べて、うだつが上がらない木曜9時枠は見捨てられたかたちになってしまったのかもしれない。とくに、この『江戸の用心棒』をやっていた際、裏番組の『ザ・ベストテン』は語り草となっている番組最高視聴率の41.9%(ビデオリサーチ調べ)を9月17日に記録する。通常は30%前半から中盤なのだが、さらに5%以上も上乗せされたことが驚異。でも、じつはこの最高視聴率にはある事情が介在していて、番組司会者の久米宏が自身のスキャンダルで番組出演を数回謹慎していたのから復帰が遂げられた回でもあって、いわば注目の的であった。まあ、とにもかくにも当時の木曜9時は『ザ・ベストテン』があまりに強くて、他局はどこも編成替えをせざるを得ない状況まで追い込まれていった。『江戸の用心棒II』は作って放送する枠さえなくなってしまったのは致し方ない。

 

フジテレビの時代劇はその後も先細りとなる。鳴り物入りで始めた「時代劇スペシャル」と長寿番組の大川橋蔵主演『銭形平次』は1984年春改編期でともに終了。代りに木曜10時へと新設した枠で始めた『弐十手物語』は、その裏番組が前時間帯の『ザ・ベストテン』よりも当時高視聴率を獲っていた『世界まるごとHOWマッチ』だったことから、あえなく撃沈して1クールで終了。

 

弐十手物語|365日時代劇だけを放送する唯一のチャンネル時代劇専門チャンネル (jidaigeki.com)

10月に放送開始

 

その後、単発の怪談ものと田村三兄弟出演を売りにしたミニシリーズ『乾いて候』で残りの1クールを埋めたものの、1984年秋改編期からは現代劇のドラマに編成替えされて、ここにフジテレビ制作の時代劇は一旦終わってしまう。残りは準キー局の関西テレビが制作局となった火曜10時の時代劇枠のみで、入れ替わりのその1984年秋改編期から始まったものが、『スチュワーデス物語』で一躍人気者となった風間杜夫主演『暴れ九庵』。運命の皮肉か、それともめぐりあわせか、『江戸の用心棒』の前番組『江戸の朝焼け』以来の東宝制作かつ国際放映スタジオを使った連続時代劇となり、故に関西テレビが制作しながらも、なんとなしにフジテレビらしい作風であった。

 

「暴れ九庵」で風間杜夫と堀ちえみが再会 | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)