今回は前々回の続きを。

 

徒然なるままに、「太陽にほえろ!」に出ていたジプシーの赤いヒラメセリカ | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

 

1981年7月にデビューしたセリカは特異な機構を持つリトラクタブルライトだったために、その奇妙な面立ちが嫌われて不評であった。二年後の1983年8月にビッグマイナーチェンジが施され、大胆なフェイスリフトによって、ヒラメ顔を廃して、オーソドックスなリトラクタブルライト(通称・ブラックマスク)となるも販売面では挽回出来なかった。もはや遅きに失したのだ。

 

LV-太陽にほえろ!04 セリカ | 製品をさがす | トミーテックミニカー (tomytec.co.jp)

『太陽にほえろ!』にもブラックマスクのセリカが捜査車両として投入された

ヒラメセリカのように短期間ではなく、今度は結構な長期間使用されることに

また、第595話「マミー激走!」(1984年3月23日放送)などのカーアクション回ではメインを張った

 

 

その当時、スペシャリティーカー市場を賑わせていたのは前年11月にホンダから発売された2代目プレリュード。なんと言ってもそのスッキリしたボディデザインが秀逸で、ヘッドライトをリトラクタブルライトにしたことで従来のシビック顔を隠し、前輪にはダブルウィッシュボーン式のサスペンションを奢ったことでスペシャリティーカーの魅力である低いフォルムのボディラインを上手く形成した。その上、全グレードにサンルーフが標準装備されるなど徹底した遊びグルマであったことから若者層へはウケにウケて大ヒットし、憧れのソアラとならぶデートカーとしてこの時代に君臨することになっていく。

 

キャッチコピーはFFスーパーボルテージ! これが元祖デートカー、ホンダ・2代目プレリュードだ | Motor-Fan[モーターファン]

 

 

同じ2ドアスペシャリティーカーであったセリカ、そして日産スカイラインターボRSのエンジンをもラインナップに持つ日産シルビア/ガゼールを隅に追いやったこのプレリュード、駆動方式はFRではなくFFで、ターボエンジンでもなく、1985年のマイナーチェンジ前はDOHCエンジンでもなかった。もはやスペシャリティーカーにはそんなスペックがいらなくなったことを如実に示したのだ。また、この当時のホンダは、プレリュードと前後して、かのシティ、ワンダーシビック、そしてCR-Xと、都会的で、ファッション優先で外車購入を考えている高感度な人たちが求めていくような車を次々と繰り出して躍進していく。巨大企業ゆえに小回りが利かない「販売のトヨタ」、スペックばかりに拘る「技術の日産」がその分野で沈んでいったのは当たり前である。

 

完膚なきまで叩きのめされて地に堕ちたセリカは1985年8月のフルモデルチェンジで起死回生を図ることとなる。まず、気を付けたのは先代と同じ過ちを踏まないこととして、その存在が霞んだ要因であったセリカXXと同時であったフルモデルチェンジの発表をずらして、セリカのほうを先行させることにした。それから、セリカXXを次代では輸出市場と同じ車名のスープラにすることがティーザーながら広められて、セリカという名前を持つクルマが一個主になるその独立性をアシストした。

 

一方、その評価の分かれ目となるボディデザインはセリカの「宿命」で再び攻めることとする。フロントは先代のビッグマイナーチェンジ時に施されたブラックマスクのリトラクタブルライトを継承しながらも、全体のフォルムは曲線と曲面を巧みに取り入れた、いわゆる「流面形」デザインで、直線基調デザインが全盛だったこの時代に投じたそれは、まさに時代を変えていくものとなった。同時期、かつてのライバルであったスカイラインもフルモデルチェンジをしたのだが、そのフォルムは相変わらずの直線基調デザインであり、セリカと並べば時代遅れとまではまだまだ行かなかったが、発表時は4ドアしかなかったことから“デザインで買う”クルマではなかった。この「流面形」デザインは好評価を受けて、マイナーチェンジでも大まかな部分は変えることはなく、これから四年後にフルモデルチェンジしていく次代でも引き継がれていくものとなった。

 

【今、乗っていると目立つ名車たち】風を味方にした流面形フォルムは、世間に衝撃を与えたって、知っていましたか!? | CAR and DRIVER (car-and-driver.jp)


 

XX=スープラとの同時フルモデルチェンジは回避されたセリカではあったが、姉妹車であったカリーナとコロナの2ドアモデルとは同時フルモデルチェンジであり、カリーナは2ドアを廃して4ドアハードトップのカリーナED、コロナはリフトバックのみとなったセリカが廃したほうの3ボックスクーペを継承していくなど三車三様に個性をより明確にしていく。この三姉妹、常に話題はセリカが中心ではあったものの、販売面ではカリーナのほうが主要だったこともあり、今回のフルモデルチェンジにおけるスペックはそっちの事情によって決められていったことで、駆動方式はFR=後輪駆動から、とうとう時代に倣ってFF=前輪駆動となる。そこだけ見ていけば、スポーツカーとして退化したのは否めないのだけれども、これは無印のセリカがセリカXX、直後に“超える”という意味を持つスープラに改名した上位車種を“超える”魅力の発端となっていく。

 

FF=前輪駆動となったということは、FR=後輪駆動にはあった後輪付近の駆動ユニットが前輪に移設したので、その付近がガラ空きとなったことにセリカ開発陣は着目した。

 

「FRにしちゃいけないとは言われたけど、ここにも駆動ユニットを積んで4WDにすればスゴくなるんじゃね?」

 

手本としたのは、同じFFベースだったものを4WDにした先駆、ドイツ車のアウディ・クワトロであることは明白。当時、WRC=世界ラリー選手権参戦で魅せたその快走ぶりに、国内外数多くのメーカーが後追いで、FFベースの4WDスポーツカーを出していて、FFとなっていくセリカの4WD化はそのひとつであった。

 

今日(こんにち)では、セリカの4WD、つまりセリカGT-FOURは、だからそのWRC参戦のために開発されたこととしてまかり通っているが、これは大きな間違いである。


1986年、それまでも死亡事故が多発のグループB規定で行われていたWRCは、5月2日にフランス領のコルシカ島で開催されていたツール・ド・コルスにおけるランチア・チームのヘンリ・トイヴォネンと同乗ナビゲーター死亡事故を機に、翌年からグループB規定の参戦車両を禁止してグループA規定に移行、さらに過激なグループS規定で行われるレース自体の計画を凍結させた。トヨタは1987年に開始されるそのグループS規定のものに参戦するつもりで、外側だけはMR2ベースの222Dというマシンを造っていたのだ。

 

幻のグループSモンスターマシン、トヨタ222Dとはどんなマシンだったのか【自動車博物館へ行こう】 - Webモーターマガジン (motormagazine.co.jp)

 

WRCの活躍でその4WDの優位性はスポーツカーでもイケると証明していたが、1985年のWRCにおいては、セリカが手本とした、フロントエンジンの4WDであるアウディ・クワトロは劣勢で、ミッドシップエンジンの4WDであるプジョー205ターボ16が活躍していて、WRCの三種の神器は、ターボ、4WD、ミッドシップとなっていた。その勝てるパッケージは、2WDであったランチア037ラリーの後継となった4WDのデルタS4、全部載せで“理論上”最速のグループBマシンとして新規参戦のフォードRS200らも続いた。セリカGT-FOURは4WDであり、ターボエンジン搭載ではあるけれど、肝心かなめのそのミッドシップではない。あくまでも、WRCでその性能が証明された4WDを組み込んだスポーツカーとして、FR以上の走りを見せる新たな価値観を市場に与えようとして開発されたものなのだ。しかしながら、グループB規定もグループS規定もキャンセルされたことから、222Dでの参戦計画は突如として終わりを遂げ、1987年からの新たな参戦車両ルール、グループA規定の連続した12か月間に5000台の生産をクリアできるセリカGT-FOURにその御鉢が廻ってきたのである。

 

ただし、グループA規定初年度の1987年シーズンからすぐに投入されたわけではなく、生産台数を達するためのホモロゲーション取得とマシン熟成のために翌1988年シーズンからとなり、その間の一年は海外でも先行して発売されていたスープラをショートリリーフで投入にした。

 

サファリ王者の「後継」だけど大苦戦! スープラは何故「ラリー」では歯が立たなかったのか? | AUTO MESSE WEB ~カスタム・アウトドア・福祉車両・モータースポーツなどのカーライフ情報が満載~

時系列でもそれを証明できる。GT-FOURはセリカの追加車種として1986年10月の発表時、あっ!と驚く隠し玉のように出てきたわけではなく、一年以上前にプロトタイプが発表されているのだ。そのプロトタイプを発表したのは、4代目へとフルモデルチェンジ発表をした直後の1985年9月下旬に当時の西ドイツで開催されたフランクフルトモーターショーで、続けて11月上旬の東京モーターショーでもお披露目された。この頃はまだWRCの参戦車両規定が変わってしまうなど夢にも思わなかったことだろう。そのきっかけとなるレース中の死亡事故も頻発する前の段階であったし、フランクフルトモーターショーのほうでは、開発中の222Dも展示されていたのだから。

 

「GT-FOURのショーカーにはっ…!!」でかバンのブログ | ぼちぼち行きましょ! - みんカラ (carview.co.jp)

すでに市販が開始されていたFFの2WDモデルに対して80~100キロ増と推測されていたが

1986年に出てきた市販モデルでは200キロ増とかなりのおデブちゃんであった

レース参戦車両にとって車体が重たいことは大敵であり

そのホモロゲーション取得を考えてなかったゆえに、WRC参戦時はこのことに悩まされていく

 

 

なお、『モーターファン速報 セリカGT-FOURのすべて』によると、東京モーターショーの不文律で、市販化されたものとプロトモデルは、同じ姿かたちで出展してはいけないというのがあって、フランクフルトではクローズドボディだったものを東京モーターショーでは、仕方なくセリカのもうひとつあるバリエーション、オープンカーにしたもので出展した。もしも、4代目セリカのフルモデルチェンジが1986年にズレ込んでいたら、東京モーターショーでもフランクフルトモーターショーで出されたものと同じクローズドボディのもの(だけど、右ハンドル仕様に換えて)が出てきて、さらにまだ見ぬ流面形デザインと4WDプラスハイパワーターボエンジンという度肝を抜くスペックに、この年の東京モーターショーにおける主役、日産MID4と話題と人気を二分したことだろう。

 

日産「MID4」はなぜ市販されなかったのか!? 幻に終わった和製スーパーカーを振り返る | くるまのニュース (kuruma-news.jp)

 

 

松田聖子と神田正輝の一子、神田沙也加が生まれた1986年10月1日にセリカGT-FOURは発表された。セリカの最上位グレードとして位置付けられ、GT-FOURだけ見れば下位のグレードにはない新型ターボエンジン搭載とMTのみの1グレード構成で、価格は297万円。同年2月にセリカXXからフルモデルチェンジしてスープラとなったものは、3ナンバー枠の3.0GT(当時MT仕様はまだラインナップされずAT仕様のみ)が335万円で、セリカGT-FOURと同じ5ナンバー枠最上位グレードの2.0GTツインターボのMT仕様が271万円と、その中間に位置するものとなった。

 

 

この価格付けは如何にもトヨタらしく絶妙であったことが伺える。しかし、それ以上に、スープラにはない魅力を持たせたことに意義があった。もちろん、それが4WD。スープラはセリカXXから引き続きFRの駆動方式であった。三年後、ライバルとなるスカイラインGT-Rがアテーサと呼ばれる4WDを搭載してきたのにも拘わらず、この代のマイナーチェンジでも、次代でもFRは堅持され、いつしか古典的な脚回りを持つスポーツカーと良くも悪くも評価が下されるようになっていった。セリカもFRのままであったのならば、依然としてスープラの廉価版とだけしか見られなかっただろうが、この後も進化を見せるGT-FOURを存在させたことで、1978年のセリカXX誕生以来苦しんでいた廉価版という誹りがようやく取り払われていったのである。なお、セリカGT-FOURの4WDシステムは、姉妹車であるカリーナEDとコロナ・クーペにも載せられることが巷では期待されたのだけれども、結局それらは出ずにセリカのみとなる。そういった面でもGT-FOURのプレミアム性は保たれた。

 

【昭和の名車 99】トヨタ セリカGT-FOUR:昭和61年(1986年) - Webモーターマガジン (motormagazine.co.jp)

外装における2WDセリカとの識別点はフロントバンパーに組み込まれたフォグランプ

また、ボディカラーのグレーメタリックはGT-FOUR専用色であった

 

 

初代GT-FOURはWRCでの参戦とともに邦画『私をスキーに連れてって』へも劇用車で登場したことから三十年以上経った現在でも覚えられている。

 

 

でも、1987年の劇場公開時は11月封切りというもので年末年始公開作品でもなかったことから配給側の東宝もそれほど力は入れておらず、ゆえに興行成績も知れていたし、話題性も現在では伝説めいて言われているような尾ひれ背びれが付いたようにあったわけではなかった。だけど、直後に“時代”が後押しする。当時、家庭におけるビデオデッキの所有率が急激に伸びていて、ほぼ全世帯に行き渡っていた。それを受けて、レンタルビデオがブームとなり、「映画は家のテレビで、好きなものでも食べながら観る」というカウチポテト族なる流行現象も起きていた。公開後、すぐにビデオソフト化された本作はそこで大ヒット作となり、猫も杓子も観るようになっていったのが経緯である。また、テレビでの初放送は、出資元のフジテレビ「ゴールデン洋画劇場」枠で、その日は世の中がバブルで浮かれまくっていた頂点とも言える1988年12月24日(土)のクリスマス・イブと絶好の機会であったことも付け加えておきたい。

 

さて、クルマのことである。当初、劇用車はトヨタ自動車ではなく三菱自動車に打診したと言われる。三菱が断った理由は明確にはされていないが、主演の原田知世は製作前年の1986年からトヨタ・カローラIIのCMキャラクターとなっており、まあそこがまずかったんじゃないのかなと。

 

それと、この作品の音楽が松任谷由実の楽曲で彩られていることも売りなのだが、その松任谷由実は公開直前の1987年10月にフルモデルチェンジした三菱自動車ミラージュのCMソング「SWEET DREAMS」(1987年11月5日発売)を手掛けることになった。劇中、原田の相手役・三上博史はその原田がCMをしているカローラIIのステアリングを握っていて、そこで松任谷由実の曲がBGMで流れるという、変則的ながらダブルブッキングが発生してしまっている。

 

ユーミンのプレイリスト | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

月「9」全盛時の「愛しあってるかい!」と「君が嘘をついた」 | 茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry (ameblo.jp)

1988年の三上博史主演ドラマ『君が嘘をついた』でもトヨタ車が出てくる場面にユーミンのBGMを掛けてしまう

 

 

松任谷由実が当時この作品についてほとんどノーコメントだったのは、そういった事情も介在していたかと考える。