先週11月24日土曜のファミリー劇場 デカ劇場枠『太陽にほえろ!』 1976年9月3日放送分の「テキサスは死なず!」で、勝野洋演じるテキサス刑事が殉職した。

 

テキサスは1974年に松田優作演じるジーパン刑事の後任として、七曲署の派出所勤めから昇格して捜査一係に赴任。演じる新人・勝野洋とその姿が重なる新米刑事・テキサスは『太陽にほえろ!』における番組人気のさらなる上昇とともに一躍人気者になっていく。

 

テキサスは、前任者のマカロニ、ジーパン同様に、壮絶な殉職で番組を去っていくのだが、彼らが一年間の出演だったのに対して二年間の出演期間を与えられた。この理由は、二つ。一つ目はテキサスが人気者で視聴者から「殉職(降板)させないで!」と番組に嘆願が殺到して、それに応えたもの。二つ目は岡田プロデューサーの述懐によると、もうこの頃は石原裕次郎が電話番となってしまっていて、現場に赴かなくなってしまったので、残りの5人を刑事らしくペアで分けて行動させると一人あぶれてしまい、解消するために一人補充するのを要したため。だから、降板させるのではなく、逆にもう一人刑事増やす方法を採った。

 

さて、ここからが本題。当時の『太陽にほえろ!』は常時30%前後を獲っていた人気番組。しかし、制作側は濡れ手で粟でその高視聴率を獲っていたわけではない。そこに弛まぬ努力があったし、時には姑息ともいえる手段を使った。その一つが、『太陽にほえろ!』の伝統芸ともいえる“殉職”を思わせぶりに使った、ファンの間で通称・“死ぬ死ぬ詐欺”と呼ばれるもの。初代新人刑事のマカロニとその後任の新人刑事・ジーパンで、殉職(降板)は視聴率を通常回よりも稼げれば、それ以上に話題にもなることから、制作側はテキサスが七曲署捜査一係に赴任して前任者たちが殉職で逝ったのと同じ一年という時期、それから人気番組だけに次の新人刑事を演じる宮内淳の加入がテレビ情報誌や芸能雑誌等でアナウンスされていて、「そろそろテキサスも殉職(降板)かあ・・・」という逆手に取った回を作る。

 

それが1975年9月26日放送の「死ぬなテキサス」。ちなみに、マカロニの殉職回のタイトルは「13日金曜日マカロニ死す」、ジーパンのほうは「ジーパン・シンコその愛と死」と、どちらにも“死”というワードが入っていて、この「死ぬなテキサス」にも入っている。この回の内容は、単独捜査していたテキサスが悪役街道を突っ走っていた頃の黒部進にライフル乱射されて追い詰められるというもので、拳銃の弾も尽きて丸腰になって絶体絶命のところを駆けつけた他の一係刑事たちに間一髪救われる展開。タイトル、予告編、そして本編の最後の最後まで、「テキサス、死んじゃうッ!」と誰もが思うものであった。

 

そして、次の回が新人刑事・宮内淳演じるボン刑事の登場回「ぼんぼん刑事登場!」なのである。テキサスとボンの若手刑事の二人体制は新鮮味となり、番組人気がさらに上昇したばかりではなく、若手同士の信頼を熱く演じていた勝野と宮内はコンビで大正製薬 リポビタンDの「ファイト一発!」のCMに起用されるオマケ付き。視聴者を良い意味で欺いた鮮やかな勝利であった。

 

そのテキサスも一年後、いよいよ本当の殉職(降板)をする。冒頭に記した「テキサスは死なず!」はニールセンの調べで番組史上最高の42.5%(ビデオリサーチで37%)を獲る。

 

● 1976年9月における刑事ドラマ一覧

月曜日 TBS『刑事くん』

火曜日 NET『新・二人の事件簿・暁に駆ける』、日テレ『いろはの“い”』

水曜日 TBS『夜明けの刑事』、NET『特別機動捜査隊』

木曜日 NET『非情のライセンス』

金曜日 日テレ『太陽にほえろ!』

土曜日 TBS『Gメン'75』

日曜日 なし

 

*『刑事くん』は30分番組。NETとは後のテレビ朝日(1977年に改称)。『いろはの“い”』は事件を専門に追う新聞記者たちが主人公で、前番組『大都会 闘いの日々』に出ていた所轄署詰め記者クラブの設定をスピンオフさせたもの。この時期、フジは刑事ドラマ枠を持ってなかったが、翌10月から月曜8時に『刑事物語・星空に撃て!』をスタートさせる。

 

すでに刑事ドラマブームで週に8番組もあり、この後も増えていく傾向で、『太陽にほえろ!』が編み出した殉職は刑事ドラマの“華”的な存在となり、各番組も追随していくなどして『太陽にほえろ!』は刑事ドラマのスタンダードでもあった。

 

そんななか、テキサスの後任の沖雅也演じるスコッチ刑事は、わずか半年で番組を去っていく。沖雅也が人気俳優であったし、この頃のスタンスとして一つの作品に半年以上の出演を控えていたのもある。また、先述の岡田プロデューサーの述懐によると、スコッチ刑事の設定は「チームワークが売り」という仲良しこよしだった七曲署捜査一係に軋轢生む一匹狼の存在として登場し、双方で打ち解け合うまでを描くのに半年という期間がいっぱいだったからとも。


茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry
日テレの番組広報誌 「うわさのテレビ」1976年秋号から金曜日の番組紹介ページ。

看板番組『太陽にほえろ!』の扱いは他の番組に比べて別格だった。


 

1977年3月25日放送、そのスコッチの降板回のタイトルは「さらば!スコッチ」。予告編を見直してみたところ、スコッチが犯人に手や足を撃ち抜かれて倒れ込み、まさに絶体絶命のピンチに陥るというもの。で、誰がどう観てもスコッチの死を予想させるものの、心身ともに絶体絶命に陥るも寸でのところで助かり、まあいろいろあって七曲署から去って他の署へ転任していくものであった。しかしながら、スコッチは『太陽にほえろ!』ファンに絶大なインパクトと強烈な支持を得て、後年復帰したばかりか、1990年代には刑事別にLDソフト化する際のファン投票で、制作側が想定していたジーパン=松田優作の伝説的人気を差し置いて一位獲るなどいつまでも愛される刑事となった。

 

新人刑事で着任以来テキサスを超える三年間も長居をしていたボンも殉職に向けたプロローグ編と思わせた1978年6月30日放送の「危険な時期」を作ってみせて、「おっ、ボンもそろそろか」と視聴者に予期させるも、実際に殉職降板させたのは1979年7月13日放送の「13日金曜日・ボン最期の日」と一年も引っ張った。『太陽にほえろ!』といえば、もう誰もがイコール殉職というイメージなのだけど、こうして示してきたように、意外なことにテキサスが殉職した1976年9月3日からボンが殉職した1979年7月13日までのおよそ3年間は殉職で降板した刑事はいないのだ。

 

喩えが古くて申し訳ないが、フォークボールの神様・中日の杉下茂が「投げるぞ!、投げるぞ!」と思わせておいて実際は他の球種で打ち取っていたように、『太陽にほえろ!』は他の理由で七曲署から去っていったり、または殉職と思わせるようなピンチを作るも、さらりとかわす戦術で毎週の視聴率30%以上の番組が持続されていったのだ。

 

1978年4月「七人の刑事」が「太陽にほえろ!」に挑戦状を叩きつけた時代

http://ameblo.jp/goro-chayamachi/entry-11246161695.html

 

しかし、1979年10月、TBSで裏番組に『3年B組 金八先生』が始まると、早々に番組人気は追い抜かされていき、30%以上あった視聴率は半減。余裕の番組作りはそうはいかなくなって、なりふりかまっていられなくなった。それに当時は1972年の番組立ち上げ期からレギュラー刑事を演じる俳優たちが相次いで番組降板を申し入れていた時期で、その第一弾として島刑事(殿下)役の小野寺昭が1980年7月に殉職(降板)することと相成った。

 

そこで“死ぬ死ぬ詐欺”が横行する。1980年4月18日放送の「島刑事よ、安らかに」、1980年5月16日放送の「島刑事よ、さようなら」。どこからどう見ても殉職降板するタイトルだ。この頃すでに小野寺昭の殉職降板は華々しくアナウンスされていて、いつ死ぬのか?というのが巷の話題になっていた。そうしてようやく1980年7月11日放送の「島刑事よ、永遠に」で晴れて!?殉職するんだが、事件は万事解決したのにその帰り道に交通事故で崖下に堕ちて死ぬという素っ頓狂な死に方であった。度重なる死ぬ死ぬ詐欺にも耐えて、“どんな格好良い死に様を見せてくれるんだろう~?”と大いに期待していた視聴者は「オイオイ・・・」というものだった。

 

さらに翌1981年になると、1981年4月10日放送の「山さんがボスを撃つ!?」、1981年4月17日放送の「俺を撃て!山さん」と犯人の要求で山さんがボスに向かって拳銃で撃ち殺さなければならないというエピソードを前後編で作る。“死ぬ死ぬ詐欺”ここに極まれりな話だ。その後も1981年5月1日放送の「死ぬなスニーカー」などと匂わせるものをタイトルに使うものの、もうその効力は残っていなかった。だいたい、スニーカーなんて崇高に殉職していくタマじゃない。こんなにも刑事という職業が似合わず、また自分でも日々疑問に抱いていて、何かと言えばすぐに辞表を出す世話が焼けるキャラだったから。結局、最後も辞表出して本当に刑事を辞めてしまった。

 

1982年になると、さすがに“死ぬ死ぬ詐欺”はもう使えなくなり、さらに長期出演していたレギュラー刑事役たちの申し入れを受けて殉職降板回が連発。堰を切ったように1月にスコッチ、8月にロッキー、このどさくさにまぎれて長さんが警察学校の教官になって転任になる設定で、10月にゴリさんと、歯止めが効かなくなってしまった。