東京の魔女 | 38度線の北側でのできごと

38度線の北側でのできごと

38度線の北側の国でのお話を書きます

 決してアンニュイではなく、クールでもなく、冴えないわけでもなく、例えば今なら奨学金の取り立てに追われる大学生のような切迫感もなく、聞かなきゃよかったというような重い、救いようのないどん底の不幸の中にいるのではなく、けれど顔もそれなりに整っていて、ちょっとこちらが手を差し伸べれば限られた時間だけど、今日はいい一日だったなとポッと暖かくさせてあげることの出来そうなくらいの、ちょうどいい幸薄系のどストライクのガールズバーの客引きの女性が東京のある街角に立っていた。

 

 しとしとと最後の桜を散らせる春の雨。夜の肌寒い空気。

 

 ターミナルのような繁華街、歓楽街のど真ん中でもなく、かといって夜9時に真っ暗になるシャッター通りでもない。普通電車しか止まらないような駅のちょうどいい広さの商店街の十字路に彼女は立っていた。

 

 透明の傘を持って冷たい雨に震えながら。1時間2000円か3000円いくらとガールズバーの名前が書かれたホワイトボードを持って。

 

 雨で文字は一部消えていて読めない。彼女は消え入るような声で「ガールズバーいかがですか」と十字路の真ん中でいう。呟くのでもなく。甘く囁くのでもなく。絶妙な声量と声色で。

 

 雨音が彼女の声を消す。隣のガールズバーの客引きの女の子の酒焼けした声も。

 

 ああ報われない。誰か客を連れて帰らないといけない。「誰か連れてくるまでは帰って来るな」といい含められているのかも知れない。同僚たちは客とのつまらない会話のやりとりと、ドリンクの注文に勤しみ給料を積み上げていくというのに。その報われなさもその瞬間の彼女の魅力をとんでもないものにしていた。

 

 ぼくは結婚もしてるし、酒も全く飲まないし、お金もそもそもない。だから普段ガールズバーなんて行かないけれどこの時ばかりはぐらっと来た。足元ががらがらと崩れていくような脆さを感じた。まるで遠くから狙撃されたかのように。 

 

 奇跡のような瞬間と幻のような風景が交差していた。その十字路で。その真ん中に彼女が立っていた。

 

 これはついて行ったらいけない。ぼくはそのまま駅に向かって歩いた。今自分が見た奇跡のような風景を網膜の奥で反芻しながらも、たぶん彼女は幽鬼のような幻のような存在なのかもしれないと思った。

 

 そうでなければ、理解できない。そうでなければ、報われない。

 

 東京の夜にはこんな奇跡のような瞬間が時々起こる。人生を踏み外すなんて案外簡単なことなのかもしれない。