恩師の予言と、人生が大きく転換した一日 | 38度線の北側でのできごと

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38度線の北側の国でのお話を書きます

 学の恩師の話をしたい。

 初対面は「変なメガネしてる先生だなぁ」という印象だった。授業には覇気がなく、なんで俺がカナダラ(ハングルの基本)なんて教えなくちゃいけないんだ?という態度が伝わって来た。韓国の大学院の博士課程まで出た先生には、いくら生活のためとはいえその授業はたまらなかったと思う。

 

 近づくと妙に熱い人だった。いちいち言語表現がオーバーだった。

 

 酒癖も悪かった。オーバーな言語表現に加え行動も大胆になる。結構、フォローした覚えがある。

 

 先生は当時20歳ぐらいだったぼくの薄っぺらい人生の中で、初めて会うタイプの大人だった。よく言えば無頼派。悪く言えば大学の先生らしいというか、大学の先生しか出来ない人。失礼ながら当時学生のぼくから見ても会社組織には合わない。ふつうの会社員として生きて行くのは難しいだろなぁと思う方だった。

 

 ぼくの文章の才能を見出してくれたのも先生だった。いっしょに1か月間過ごした、韓国の短期留学の時に書いていた日記風の文章を大絶賛してくれたのだ。

 

 褒められ慣れていないぼくは、その熱過ぎることばに戸惑った。「いつか君は、自分の名前で仕事をするよ」。ある時、飲み会でそんなことも言われた。「うちの大学、偏差値50前後の三流大学ですよ。何をおっしゃってるんですか先生は」。先生はいわゆる、最高学府と呼ばれる大学を卒業されている。

 

 何者でもなかったぼくは、そう返した覚えがある。それこそ失笑しながら。少し照れながら。

 

「君はぼくの目を疑うのか!」

 

 先生の目は据わっていた。至って真面目だったのだ。どきりとした。それから時間はかかったけれど、ぼくは先生と共著で本を書き、自分の名前で確かに仕事をしている。それ一本では食べられていないけれど、日本全国あちこちで、時に右翼の勉強会でも講演をしたり、トークライブをしたりもしている。移動がグリーン車だったりタクシーだったりもする。著述業をやってます、と胸を張ってではないけど言えるようになった。先生の目は合っていたわけだ。

 

 また、先生はこんなことも言っていた。

「書き続けるんだ。きっと誰かが見ていてくれるから。そして書き溜めた文章はちゃんとまとめておくんだ。いつでも出せるように」。

 

 日本の全国誌でも書いたけれど、主に書いているのは在日朝鮮人の方の媒体。在日朝鮮人の読者やファンは増えたけれど、日本人で読んでいる人は少ない。先生のことばをいつしかぼくは忘れていた。

 

 先日のトークライブでのこと。一番前の席に男性が座った。「月刊イオの北岡さんの連載、読んでました」。ぼくが在日朝鮮人の方向けの雑誌で書いていたコラムを読んでいたというのだ。男性はある出版社の編集者の方だった。

 

 今日、その編集者の方と昼ご飯を食べながら話をした。「単著をさっさと書きなさい」と先生は最近言っている。詳しくは書けないけれど、その話がぐんと具体性を帯びて来た。

 

 変な一日だった。朝から久しぶりにスーツを着た。午前中に2月から働く職場が決まった。午後に本の話が急に進んだ。ジュンク堂で本を読んだが頭に全く入ってこない。森見登美彦の「熱帯」。普段ならスッと入っていける森見ワールドに入って行けない。何が面白いのだろう。首を傾げながらぼくは油そばを食べ、今、午前中の職場関連の何本かのメールを書いた。

 

 先生に報告のメールを書いたらもう寝ようと思っている。北海道に出張した妻は大雪で帰宅することが出来ず、急きょ宿泊が決まった。昼の職場を紹介してくれた友人は、上野でナンパされたとLINEして来た。今日だけで色々とここ数年の生きる方向が大きく変わり、イレギュラーなことがぼくの周りで色々起こり、それはぼくの許容量を明らかに超えている。何だか夢心地。ふわふわと浮いている。

 

 本当は書かないといけないメールや、やらないといけない仕事もあるけれど、寝た方がいい。たぶん、寝た方がいい。ぐるぐると何かが回っている。まるで夜の街をパトロールする、パトカーの赤色灯のように。それは遠くなったり近くなったりしている。