退化するぼくたちと、日本と、日曜日の夜 | 38度線の北側でのできごと

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38度線の北側の国でのお話を書きます

 宮駅の東口を出て、少し歩いたところにあるイタリアンレストラン。11月、12月と短い間隔で訪れた。前の会社の同僚とふたりで。この店には生ハム1時間500円食べ放題というプランがあって、初めの1時間は彼女はスパークリングワインを、ぼくはレモネードかクランベリージュースを頼み、黙々とふたりで生ハムの皿を空にし、店員を呼び生ハムをおかわりし、再び空にする濃い時間を過ごす。

 

 1時間が過ぎた。マルゲリータ・ピザを頼む彼女。「最近、ほんとに太りましたよ。最近だんなにこっぴどく言われます」。彼女は嘆く。お互い様だ。ぼくだって老けた。おでこのしわは消えなくなった。額も広くなった気がする。幸い、地下にある店の照明は暗く、お互いの姿をはっきりとさせない。

 

 彼女はともかく、ぼくのここ数か月の職場での待遇に憤っていて、ネット関連の仕事に戻ることを強く主張している。わたしの職場に来てくれたら即戦力ですよ!いつまでそんな、合わない職場にいるのですか!とも言ってくれる。そのことばに救われる。半ば本気の誘いと、いつかぼくが彼女に与えた恩返しの機会だと言って、こうして会う機会を作ってくれている。

 

 初めてあの会社で会った時はぼくたちはまだギリギリ20代だった。今までも、もしかすると前回会った時に話した同じ話題で笑う。「それ、前も話したよね」とお互い20代のころなら尖った声で咎めていたかも知れない。前に話した会話の記憶もあいまいな上に、それについて寛容でいられるようになった。エッジが消えた。丸くなった。

 

 大宮の夜は更け行く。平成30年が終わろうとしていた。そして平成もあと数か月で終わる。

 

 シフト制で働くぼくも彼女も、サザエさん症候群なるものとは無縁だ。サザエさんを見ると、月曜日の出勤を想い憂鬱になる土日休みのサラリーマンとは違う。そもそも、サザエさんの時間が勤務時間なのも当たり前だ。

  

 何杯目かのスパークリングワインと、クランベリージュース。

 

 さくらももこが死んだ。ふと気づく。日曜日の6時から1時間。流れるアニメ番組の作者はどちらも亡くなっている。作者は亡くなっても、放送は続く。国民的アニメなどという冠をつけたまま。

 

 再び想う。歳をとったのはぼくたちだけなのだろうか。

 

 ちびまる子ちゃんと、サザエさんはいつ終わるのだろう。終わるのなら今じゃないか。平成の終わりとともに終わる。引き際としてはふさわしくないか。

 

 クランベリージュースを口にする。酸っぱい、けれど健康に良さそうな味。太ってしまうと言いながら、彼女はスパークリングワインを口にする。

 

「笑点を見て、てなもんや三度笠を見て、シャボン玉ホリデーを見たもんさ」。昭和ど真ん中のチャンネルの流れを何かの本で読んだ記憶がある。笑点は残っているが、先代の圓楽師匠も歌丸師匠も亡くなった。

 

 もしかして、代われないのではないか。ちびまる子ちゃんとサザエさんにとって代わる番組を作れない。取って代われない。創造力の喪失。マンネリへの寛容。

 

 同じ話題で笑えてしまう、大宮の地価のイタリアンレストランのぼくたち。それと同じく、変わらないマンネリをぼくたちは許してしまう。もしかして歳を取ったのはぼくたちだけでなく、日本全体ではないのか。

 

 もう原作者がいないアニメが、十数年、数十年同じ時間帯に流れる奇妙さ。視聴率は以前ほどではない。けれど、一定の数値を取る。一定数の人間が見ている。明日やって来る月曜日にため息を吐く変わらない日曜日の夜―――。

 

 もしかするとそれは老化ではなく、退化なのではないか。

 

 彼女が、お手洗いに立った。

 

 ぼくたちは、退化している。声に出してみた。そこの席にいない彼女に話しかけるように。

 

 ぼくたちは、退化している。もう一度、少しだけ大きな声で呟く。

 

 彼女はまだ帰ってこない。この店の洗面所は、広さのわりに数が少ないのだ。ぼくの呟きは忘年会シーズンの地下の店の喧騒にかき消された。まるで、Twitterの流れていくタイムラインに埋もれていくように、誰にもリツイートされず、いいねもされず流れ消えていった。