私たちは、直接五感に感じること
「目に見える、耳に聞こえる、味わう、匂いなどを嗅ぐ、皮膚などで感じる」
ことが全てだと思っており、五感を通してしか判断出来ていないのです。
しかし、私たち人間は、いつも言っていますように、肉体の他に目には見えない幽体(オーラ、潜在意識)や霊体、神体というボディを纏っており、それは同時に、肉体界の他に幽界、霊界、神界にも同時に住んでいるのです。
安心立命、つまり本当の幸せを手に入れるには、肉体界の粗い波動に囚われていてはいけない、「肉体界、幽界、霊界の奥にあるホンモノの世界、神界(天国)にしっかりと波動、波長、意識を合わせなさい」
と大聖者である、老子様がおっしゃっているのです。
それから文章の中にいつも出てくる、老子様の有名な言葉、「無為に為せ」を説明します。
無為とは、一言にして、為にしない、ということなのです。何をしよう、かにをしよう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いをめぐらさないことが無為なのです。
少し長い文章ですが、今の私たちにとてもとても大切なことが書かれています。
是非!最後までお読みください。
原文
其の兌を塞ぎ、其の門を閉ずれば、終身勤せず。其の兌を開き、其の事を済せば、終身救われず。小を見るを明と日い、柔を守るを強と日う。其の光を用い、其の明に復帰すれば、身の殃を遣すこと無し。是を襲常と謂う。
五井先生の解釈
共の兌(だ)を塞ふさぎ、という兌ということは、穴という意味をもっていますので、ここでは、眼や耳やロという、見たり、聞いたり、しゃべったりする機関のことをいうのであります。
こういう諸機関を塞さぎ、というのは、真の人間は肉体の眠や耳やロで、見たり、聞いたり、しゃべったりすることで満足していてはいけない。
そんな人間の入口のところに想いがひっかかっていてはいけない。
そんなことでは人生に疲れてしまって、真実の生き方ができるわけはない「終身救われることがない。
だから、そういう入口にある想念の門を閉ざして、奥の奥の深い奥にある真実の心を見出さなければいけない。
それは、眼にも耳にも想念にも触れないような、微妙なひびきではあるが、五感に把われる想念を鎮めて、即ち其の兌を塞ぎ、其の門を閉ざして、想念を深い奥に入れきってしまう。
つまり、空の境地になってしまう。
想念を深く鎮めきると、大生命のひびきが、じかにひびいてくる。
宇宙子科学式にいえば、小さな小さな、微妙きわまりない宇宙子の動きが判ってくる。
この心を明というのだ、と老子はいうのであります。
そして、この明の心になり、柔軟な柔和な自由自在の心になれば、この心は、宇宙神、大生命にじかにつながっている心だから、何もの、何ごとにも負けぬ、強靱なものになるのである。
そういう大生命の光を用い、そのような明の境地に復帰し、復帰しとは、人は本来、神そのものの生命であり、明そのものの心をもつものであるのに、業想念波に踊らされてその本心を見失っているわけなのであるから、明の心になることは、本心に復帰したということになる。
そんな心の状態を保っていれば、未来永劫身心わざわいを残すことがない。
襲常(しゅうじょう)というのは、こういう心の状態をいうのである、と老子はいっているのであります。
老子解説者のしばしば迷うことは、老子の言葉には、 一見消極的な生き方をすすめているような説き方に見られがちな、言葉がありますが、私は常に、老子は消極をも積極をも超えた、無為の在り方を説いているのであって、老子の思想を消極とか積極とかに限定してしまってはいけない、というのです。
この章でも、母を守る、とか、塞ぎとか閉ざすとか、柔を守る、とかいうような守勢の言葉をつかっていますが、この言葉は、単なる消極ではなく、無為の心になりきって生れてくる行為なので、天地を貫いて作用する、大能力となって、現われてくるのであります。
実際は、こういう無為の生き方のできる心の状態になった人でないと、 はっきり、そうなんだ、と老子の言葉に全幅の肯定を為し得ない、と思うのですが、実際にあらゆる想念に把われず、自己の気というものが、奥の奥の奥底に入りきってしまう、 つまり、大生命のみ心の中に入りきってしまうと、 いわゆる霊覚という状態になりまして、五感や六感を超えた超越心で、事物事柄に当れるようになり、この世の人々にとっては、不思議だ不可思議だ、というような事柄が、なんでもなくできるようになるのであります。
そういう風に、父であり母である宇宙神のみ心のままの生き方が、そのままその人の行為となって現われてくることが、既にその母を知ったことになるのでありまして、自分の行為がどうだ、人の行為がどうだ、などと、現われては消えてゆくような想念行為の波には把われぬ心の状態になっているのであります。
霊覚と霊能というのは自ら異なるのでありまして、 霊覚とは、老子のいう無為になりきった人の神秘力をもった生き方であり、霊能とは、神秘力や不可思議な能力はあるけれども、無為の心の状態になっていないので、自己のそうした能力を、自分自身の欲望達成に使っていて、天下、人類の為のものとはしていないのです。
ですから、単に霊能力がある、不思議なことのできる人、というだけで、その人を霊覚者とみたり、悟った人と思ったりしてはいけません。
そこで、どうしても老子講義のような、深い教えを知る必要があるのであります。
老子の教えは常に奥義を説いているのでありまして、特殊な能力の発現や、神秘力を説いてはおりません。
それでいて、 神秘力が自ら現われる生き方が説かれているのであります。 その真理は、文章の上べ
だけを読んでいたのでは判らないのです。文章の上だけでは、むずかしいことを説いている、とか、
そういう風に自分の行為を守ってゆけばよいのだなあ、ぐらいにしか思わぬ人もあるわけですが、
老子の言葉はその一言一句が、神のみ心の光を帯びて読む人の本心をお自のずと開いてゆく程の力をもっているのであります。