祈りは生命の洗濯である
祈りとはお願いではありません。
自己の想念を自己の本体(神)の中に飛び込ませて、洗い浄めてくることなのです。
いわゆる生命の洗濯なのです。
それを常にやっていれば、いつも生命(霊魂)は清らかでいられるわけで、自ずから光り輝いてくるのであり、他への善い影響を与えてゆくのです。
私の説いている世界平和の祈りは、思念の力でやるのではありません。
思念にも何にも、すべて自己に附属するすべての想念を、ただふんわりと、神様のみ光の中に世界平和の唱え言と共に投げ出してしまう。
そこには自己という小我の想念は何もない。
何もないというより有る想念はすべて神様の中に投入してしまうという、宗教本来の方法、色即是空、空即是色という般若心経の方法をあっさりとやさしく行じさせているのです。
何度びも申しているように、祈りと念力は違うのです。
祈りとは神そのものに全託して、神のみ光をそのままこの肉体世界に天降らせる、器をきれいに神のみ光で浄めて貰って、光の通りやすいようにして頂く、という方法であります。
肉体人間の余計な想念は神のみ心を邪魔するだけで何の益もないのであって、そうした想念を全託した時にはじめて、真実光り輝く神のみ智慧としての想念行為が、その人その国の行為として現われてくるのであります。
ですから私どもの世界平和の祈りは、思念の力で神の光を地上に流れ入らせるというようなものではなく、本来の神性を邪魔する想念の一切を神様の光の中で消してもらって、本来の神性を素直にこの地上界に光らせようというのであります。
そうして下さるのはすべて肉体人間の想念や思念の力ではなく、大神様であり、直霊であり、守護神、守護霊の光によるのであります。
『愛・平和・祈り』 五井昌久 白光出版
感想・・・肉体人間の余計な想念は神のみ心を現わす邪魔になっているとここで書かれています。
肉体の頭で考えないでどこで考えるんだ、頭で想い、考えるのはなぜいけないんだ、と私たちは思いますが、頭というのは、過去世からの蓄積された想念(潜在意識)だとか、人類の集合意識だとかが脳髄の中に入って来て、混乱させ「ああだ、こうだ」と迷い悩ますことになるのです。
そこでお釈迦様は、「頭を空っぽにしろ」、キリスト様は「幼子のようになりなさい」、老子様は、「無為に為せ」(何々の為にしようとするな)とおっしゃり、頭で考えることを否定されたのです。
そこで、頭で考えないでどこで考えるのだ、ですが、それは下丹田(かたんでん、へそ下3.5センチ)なのです。
今は医学でも腸(お腹)に第1?第2の脳があると言われています。
下丹田は腹脳(ふくのう)とも呼ばれ、霊的なほんとうの脳がある場所なのです。
頭に浮かんで来る想念、雑念、業想念をすべて『世界平和の祈り』の中に投げ入れ、想い考えたくなったら頭ではなく下丹田に意識を集中させる。
すると必要な智慧はすべて頭からではなく、下丹田から浮かんで来るのです。
なぜならば下丹田は宇宙そのものだからです。宇宙(本心)と繋がっているからです。
進化した星の宇宙人たちはみなテレパシー、下丹田で対話をしています。
下丹田と下丹田同士で交信しているのです。
すなわち本心と本心で通じ合っているのです。
下丹田については、また詳しく述べてゆきます。